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・コメント返信
>しも
「~失敗」の方が全体的に暗い(話の内容ではなく、紙面が)と思っていたが、その正体はコマの小ささか。言われて気付いた。
「~生活」も始めた当初は小さいコマが多いのな。


・失速
 最近、どうにも小説について考える時間が少なくなっている。執筆のペースも落ちている。こういうのは一度失速し始めるとすぐに落下し、しかもまた持ち直すのに時間がかかるものだ。
 継続は力なりという言葉は偉大。


・出版
「スカイ・イクリプス/森 博嗣」が出てた。あと「覗き小平次/京極夏彦」もそろそろ書店に並ぶはず。
 くそう……。最近出費が多いというのに……。


・読書
「小説修業/保坂和志、小島信夫」を読んでいる。
 何をいっているのかさっぱりだが、トルストイとか、要は海外文学も読もうと前田は思ったのであった。
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・コメント返信
>杏
 ウソくさすぎるw それがマジならお前は役者になるべきだ。

>emptyさん
 職人V.S.職人の構図ですか。まるでテレビチャンピオンのようだ。全国ゆうこりん選手権。オタク選手権なんかメじゃねえぜ!


・自慢
 文学研究科のゼミに参加していたら、学生から「前田さん、文学研究科に移ってこないんですか?」と言われた。学部生なんかよりよほど前田の方が「文学の読み」について考えているらしい。文学部の学生は何をやっているんだと思う反面、嬉しかった。


・購入記録
「小説修業/保坂和志、小島信夫」
 衝動買いしたのは久しぶり。両作家による往復書簡の形をとった小説の書き方本。ただし全く実践的ではない。少しだけ読んだが、単純にエッセィとしても楽しめそう。
 他には
「僕の小規模な失敗/福満しげゆき」
「僕の小規模な生活/福満しげゆき」
 特に「~失敗」は表現が強烈で、へこんでいるときに読むとやばい。将来が不安になるぜ!


・スタッフロール
「FLCL」というアニメを観た。昔観たときは「ワケ分からんが面白い。あとピロウズ最高」という感想しか持てなかったが、今観てみるとテーマみたいなものも見えてきて、ちょっとは「作品の読み」について成長したかな、とか思う。
 んで、スタッフロールに「本谷有希子」の名前が出てきてビビった。エンディングの人がこの人だったとは。
 このblogの読者は殆どが前田の知り合いだと仮定すると、今回の記事のタイトルはなかなか良いと思う。


・コメント返信
>kisaさん
 意見感謝。簡単に答えが出る問題ではないと思うので(出たとしても、それを作品で表現できなくてはならないし)、また考えてみます。

 あと、物理の法則というのは「実際に何が起きるか」ということを一般化しているに過ぎないので(現実的非現実的ということじゃなくて、物理法則は現実)、ブレイクスルー云々ということではないと思うよ。


・小倉優子
 と、いうことで記事タイトルである。時事ネタであるところの通り魔事件について思うコトを少々書こうかなと思ったけどやめて、別のことを書く(前田の中では関連はしている)。
 小倉優子は天然キャラがウリのひとつらしい。きっと彼女のファンは「小倉優子の天然キャラは全て演技である」ということを嫌がるだろうと想像する。しかし前田としては、演技をしている方がむしろ好ましい。何故なら、そちらの方がかっこいいからだ。演技で自分のキャラクタを「商売にできる」レベルにまで創造した職人、という感じがする。これならファンになってもいいと思う(しかしながら、彼女の活動には興味がない)。
 で、どうして小倉優子のファンは「演技である」ことを嫌がるのだろう?
 想像に想像を重ねているのだが、その理由というのは「天然キャラを演じるということから、逆に素の性格が悪いという予想をしてしまう」という点にあるのではないかと思った。確かに演技者が内心で「てめえら、こんな演技に騙されるなんて、脳みそあんの?」とか思ってたら嫌である。けれど、演技をしているということと性格が悪いということは全く関係ない。普通の性格で、天然の演技をしているなら、そちらの方が好ましいと思うのだけどなぁ。
 なお、小倉優子が演技しているかどうかを前田は知らないし、このことに関する情報も一切もっていない。上記の文章は「もしも」の話である。


・京大ミス研
 ひと月ほど前に後輩から借りた「蒼鴉城」を読んでいる。本格ミステリと文学について考える良い材料にもなりそう。
 それにしても、京大ミス研は一時期凄まじい面子だったのだなぁ。綾辻行人、小野不由美、法月綸太郎、我孫子武丸が揃うサークル。恐ろしすぎる。


・本格ミステリと文学
 このことを考えるために読んでおくべき(だと思われる)作品を、挙げてみる。多分、この辺りが必要なんじゃないかなという予想。
「姑獲鳥の夏/京極夏彦」または「すべてがFになる/森 博嗣」
「コズミック/清涼院流水」
「ドッペルゲンガー宮/霧舎 巧」
 松本清張の社会派ミステリ。
 海外の本格ミステリ。カーとかクィーンとか?
 日本の本格ミステリの代表。島田荘司とか?
 日本の新本格の代表。綾辻とか有栖川とか法月とか?
 要は、本格の隆盛と衰退を観ていくといいのかな。
・読書
「七瀬ふたたび/筒井康隆」読了。三部作の中の二作目。一作目の「家族八景」の存在は知っていたが、三部作だとは知らなかった。しかし解説を読む限り、今作から相当ぶっとんでいる気がしてならない。
 古い作品(三十年くらい前か)だからか、それとも筒井康隆だからなのか、文章が随分味気なく思えた(時をかける少女を読んだときも似たような印象を受けた気がする)。文章だけみれば、決して面白い作品とは思えない。
 しかし面白い。ラストとか結構感動した。文章は味気ないのに。こういうのはやはりストーリーの力だよなぁとか思う。当たり前のことだけど、文章力にある感動をストーリーで生み出すことはできないし、ストーリーで生まれる感動を文章力だけで出そうとしても無理なのだ。
 かつて「木曜の怪談」でドラマ化されていたのを思い出して買ったのだけど、組織の描写はドラマの方が怖かった気がする。


 もういっちょ「十角館の殺人/綾辻行人」読了。新本格の記念碑的作品? 館モノを読んだのは初めてかも? 読んだことがあるかどうか、ちょっと記憶にない(周囲の人間は誤解しているかもしれないが、前田は本格ミステリオタではない)。
 作品内容云々よりも、館モノ本格ミステリに於ける文学性について考えたくなった。そのミステリ作品固有の文学ではなくて、館モノ本格ミステリというジャンル自体にある文学性。
 よく言われていることだけど、館モノには(現実に則しているかどうかという意味での)リアリティがない。最大の魅力といわれる「謎とその論理的な解明」についても、それだけを書くならば小説でなくたっていい。極論すれば物語でなくてもいいのだ(もちろん、謎を深めるという効果は薄れてしまうが、謎と解明という点では変化がないだろう)。「最高の理系ミステリとは物理の問題だ」と発言した人物がいたが、それはある意味で正しいはずだと前田は思う。
 と、本格ミステリを否定するような言葉を並べたが、現実に本格ミステリというジャンルは存在し、そして多量のファンを獲得している。
 ミステリファンはまさか「謎と論理だけあったら他はべつにいらないよ。オマケみたいなもんだよ」とは言うまい。本格ミステリとは「読者対作者の論理ゲーム」だけで成立するものではないのだ。
 では本格ミステリとは一体なんなのだろうか?
「孤立した館という、確実に犯人が絞り込まれるような状況で」「犯人が誰かということだけを隠蔽するように人をあからさまに殺し」「犯人は必ず内部の人間で」「犯人でない人間は自分の身を護る手段を取らない」ような非現実性を持ちながら、それでいて「小説として書かれるような物語」という現実性を求められる本格ミステリとは、一体、なんなのだろうか? 非現実性と現実性を自覚的に両方とも楽しむ本格ミステリファンとは何ものなのだろうか?
 この問の解に文学らしさが潜んでいるような気がする。
・ユリイカ
 6月号。特集はマンガ批評の新展開。
 福満しげゆきの漫画についての記事をちびっとだけ立ち読み。こんな感じの言葉があった。
「非モテのルサンチマンは、たとえ彼女ができたり結婚したりしても消えたりはせず、いつまでも残る」
 作家というのも、そういうものなんだろうか。作家志望者が作家になったとしても、やはり「作家になりたい」という時代のコンプレックスみたいなものは消えない。そんな気がした。
 けど、作家になって満足したら続かんよね。当たり前か。作家になってもコンプレックスが消えないというのは、作家であるための必要条件、みたいな。


・文芸についての思いつき
 文章を「上手い」「下手」というパラメータで判断するのは一般的だと思う。けど、上手い文章って、作家志望者にとっての武器にはならないんじゃないかと思い始めた。
 ここでいう上手い文章とは「読み易い」「正確に伝わる」という意味。この意味で使うなら、上手い文章なんて書けて当たり前なわけで、作家志望者は、例えば新人賞に応募する人間は全員文章が上手いと思うべきじゃなかろうか。つまり、文章が上手いということは長所でも才能でもない。
 じゃあ、武器になる文章って何だろうか。形容詞化して言うと、強い文章って何だろうか?
 他の作家とは違う、異質な文章はきっと強いだろう。
 で、違うって、どこがどう違うの? 違うって何さ?


・文学研究
「白痴/坂口安吾」で「白痴の女は、実は白痴ではない」という考えを発表した人がいた。こういう考えが、前田は好きである。


・読書
「ロスト・ストーリー/伊藤たかみ」読了。以前、自分の記事でも紹介した「登場人物が個人的な理由でいなくなってしまった」という小説はこれのことだった。視点保持者の感情を書くのに文章を多く使っていて、好みが分かれそうな気がする。
 伊藤たかみのインタビュー記事を読んだことがあるためか、本作の背景はすぐに解釈できた(正解かどうかは不明である)。登場人物たちがたびたび口にする「物語」とは「小説」のこと、「誰か(伊藤たかみとか)が書く、または書くはずだった小説」のことで、本作はそれら小説の隙間にあるものだ、ということ。だから本作の作成過程として「プロットを幾つか書く重要な人物の部分を空白にする→そのうち一つのプロットを選ぶ→空白になった登場人物を入れて書く」というものが思い浮かんだ。
 しかし、どうにも「抽象的だな」という感想しか持てなかった。上記の自分の解釈を登場人物が述べるわけではないので、登場人物同士の物語についての会話が良く理解できないのである。
 あと、現実感という意味合いでのリアリティが、あんまりなかった気がする。文章は細かいし、描写などから「小説の中の世界」が良く想像できたけれど(この観点でのリアリティはあると思う)、登場人物たちの語る「物語=小説」に現実感がなかった。「ここにも小説があり、そして小説はここだけじゃない!」という感じがしないというか。あくまで「人物」が話すからだろうか? しかし小説云々にリアリティを感じないということは、「物語=小説」という前田の解釈がそもそも間違っている可能性が大きい。

 自分としては「八月の路上に捨てる」の方が面白かったです。
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