・コメント返信
>無為さん
なるほど。自分は特に後者のやり方が気になります。しっくりくるなぁってやつ。音楽と言葉って、かなり違うものな気がするから、その間に「しっくりくる」という感覚があるというのが、なかなか凄いことに思える。
・購入録
「日本のエロティシズム/百川敬仁」購入。
ところで、講談や噺の勉強をしたいのだけど、誰か良い理論書知りませんか?
・読書
「おやすみプンプン 2/浅野いにお」を読んだ。
このマンガの主人公の造形は変な鳥?なのだが、彼は普通の人間として扱われている。その主人公の造形が、この作品になくてはならないようなものな気がどんどんしてきた。もともと一巻からその気はあったのだが(この作品の最大の凄さは、主人公の姿にあると思っている)、いよいよそれが強くなった。どうしてだろう?
分析も何もなく、感想は「すげえ」。あの見開きに、完璧にやられた。
前田は今まで「マンガの最高に素晴らしいコマ」として「SLAM DUNK/井上雄彦」のラストと、「羊のうた/冬目 景」のラストを(脳内で)ベストの二つに挙げていたが(二つとも平凡な視点だが勘弁してほしい)、今回のプンプンで順位が入れ替わりそうである。
理由は静的か動的か、という点。
スラムダンクと羊のうたの該当見開きは、前田は、静止した絵画と見える。これに対して、プンプンの該当見開きは「動き」がある。この「動き」を出すということが、凄いと感じられた。
このレベルの表現を出せるかと言われたら、当然自信がない。これには追いつけないとか思ってしまう。だからといって思考停止してはならないのだ。
>無為さん
なるほど。自分は特に後者のやり方が気になります。しっくりくるなぁってやつ。音楽と言葉って、かなり違うものな気がするから、その間に「しっくりくる」という感覚があるというのが、なかなか凄いことに思える。
・購入録
「日本のエロティシズム/百川敬仁」購入。
ところで、講談や噺の勉強をしたいのだけど、誰か良い理論書知りませんか?
・読書
「おやすみプンプン 2/浅野いにお」を読んだ。
このマンガの主人公の造形は変な鳥?なのだが、彼は普通の人間として扱われている。その主人公の造形が、この作品になくてはならないようなものな気がどんどんしてきた。もともと一巻からその気はあったのだが(この作品の最大の凄さは、主人公の姿にあると思っている)、いよいよそれが強くなった。どうしてだろう?
分析も何もなく、感想は「すげえ」。あの見開きに、完璧にやられた。
前田は今まで「マンガの最高に素晴らしいコマ」として「SLAM DUNK/井上雄彦」のラストと、「羊のうた/冬目 景」のラストを(脳内で)ベストの二つに挙げていたが(二つとも平凡な視点だが勘弁してほしい)、今回のプンプンで順位が入れ替わりそうである。
理由は静的か動的か、という点。
スラムダンクと羊のうたの該当見開きは、前田は、静止した絵画と見える。これに対して、プンプンの該当見開きは「動き」がある。この「動き」を出すということが、凄いと感じられた。
このレベルの表現を出せるかと言われたら、当然自信がない。これには追いつけないとか思ってしまう。だからといって思考停止してはならないのだ。
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・コメント返信
>emptyさん
やっぱり越境したら越境しっぱなしなんでしょうね。「GOSICK」は完結していないと聞きますが、どうなるのやら。
一般読者がライトノベル作品に注目し始めるということはないにしろ、一般文学界(文壇?)がライトノベルを気にし始めたらいいなと、自分としては思っております。個人の功績ってことは、環境に偏見を持つ必要はないという見解に繋がると思いますし。
畑違いという点では、ある意味川上未映子の方が違ってるわけですが……。
・更新
サイト間企画と称してマンガの原作を書きました。んで、その企画に参加しているサイトをリンクに追加。
「空疎代替領域」
「The Guilty Sanctuary」
>emptyさん
やっぱり越境したら越境しっぱなしなんでしょうね。「GOSICK」は完結していないと聞きますが、どうなるのやら。
一般読者がライトノベル作品に注目し始めるということはないにしろ、一般文学界(文壇?)がライトノベルを気にし始めたらいいなと、自分としては思っております。個人の功績ってことは、環境に偏見を持つ必要はないという見解に繋がると思いますし。
畑違いという点では、ある意味川上未映子の方が違ってるわけですが……。
・更新
サイト間企画と称してマンガの原作を書きました。んで、その企画に参加しているサイトをリンクに追加。
「空疎代替領域」
「The Guilty Sanctuary」
・今話題の
桜庭一樹を読んだことはない。
それはともかく、伊坂幸太郎はいつ取るのだろう? 候補には何度もあがっているが、山周賞もまだだし。不思議。
気になる作家では、恒川光太郎と万城目学。二人ともデビュー直後に候補(恒川はデビュー作、万城目は二作目)になっている。やっぱり、いずれ取るんだろうなと思いつつ、いつになるだろうとも思う。
・革命
創作メモとして書いておこう。ただしショパンは全く関係がない。
最近の前田の書きたいものとして「世界の変革」がある。世界というのは大きな範囲のものではなく、個人としての世界。「セカイ」という言葉に近い、あるいは同じものだろう。今まで自分が生きていた世界が何らかの大きな変化を起こす(そしてそれは世界が変わるのではなく、人間が変わる)、その瞬間を書きたいと思っている。
この「世界の変革」を前田は明文化して説明できていないが、具体例としては「ソラニン/浅野いにお」がある。この中には主人公の「世界の変革」があると、勝手に思っている。
さて、この「世界の変革」、どうやって起こせばいいだろうか。そのヒントとして叙述トリックがあるのではないか、ということに思い至った。叙述トリックの面白さの一つは「信じていたことが裏切られ、結果、見えていなかったものが見える」という点にあると思う。これは「世界の変革」に似ているのでは?と思った次第。
従って「世界の変革」を書くために「信じていたものが裏切られる」ということに関して考えていけばいいのではないか、と結論するに至った。
・気になった本
「花の民俗学」。講談社学術文庫である。最近、めっきり民俗学に触れていないので(もともとミーハーみたいなものだが)、読んでみたくなった。
・タイトル
最近、とある短編を書いた。しかしタイトルが一向に決まらない。力のある単語を選ぶという行為の難しさが分かる。
桜庭一樹を読んだことはない。
それはともかく、伊坂幸太郎はいつ取るのだろう? 候補には何度もあがっているが、山周賞もまだだし。不思議。
気になる作家では、恒川光太郎と万城目学。二人ともデビュー直後に候補(恒川はデビュー作、万城目は二作目)になっている。やっぱり、いずれ取るんだろうなと思いつつ、いつになるだろうとも思う。
・革命
創作メモとして書いておこう。ただしショパンは全く関係がない。
最近の前田の書きたいものとして「世界の変革」がある。世界というのは大きな範囲のものではなく、個人としての世界。「セカイ」という言葉に近い、あるいは同じものだろう。今まで自分が生きていた世界が何らかの大きな変化を起こす(そしてそれは世界が変わるのではなく、人間が変わる)、その瞬間を書きたいと思っている。
この「世界の変革」を前田は明文化して説明できていないが、具体例としては「ソラニン/浅野いにお」がある。この中には主人公の「世界の変革」があると、勝手に思っている。
さて、この「世界の変革」、どうやって起こせばいいだろうか。そのヒントとして叙述トリックがあるのではないか、ということに思い至った。叙述トリックの面白さの一つは「信じていたことが裏切られ、結果、見えていなかったものが見える」という点にあると思う。これは「世界の変革」に似ているのでは?と思った次第。
従って「世界の変革」を書くために「信じていたものが裏切られる」ということに関して考えていけばいいのではないか、と結論するに至った。
・気になった本
「花の民俗学」。講談社学術文庫である。最近、めっきり民俗学に触れていないので(もともとミーハーみたいなものだが)、読んでみたくなった。
・タイトル
最近、とある短編を書いた。しかしタイトルが一向に決まらない。力のある単語を選ぶという行為の難しさが分かる。
・書評
最近、書評関連の記事を見かけることが多かったので、簡単に自分の考えを書いておこうと思う。というのも、卒論締め切り前につき更新意欲が湧かないのである(しかし小説は一本書いた)。
一つ。書評は自分のためにした方が良い。
どんなにつまらない作品でも、そこから面白さを引っ張り出せた方が面白いからだ。書き手としても読み手としても、面白い方が得だと前田は思う。
一つ。何が面白くないかを考えるのも勉強になる。
これは書き手としての意見。いうなれば、面白さの境界条件である。「これをしたら絶対に面白くならない!」というものを持っているのは、自分のミスを減らすことに繋がると思うし、逆に、面白いものを生み出すきっかけにもなりえるだろう(後述する「見かけた本」に詳細)。
一つ。書評を発表する際に、客観性を大事にする。
面白い、つまらない、といっても、結局は「自分に合うか合わないか」という問題でしかない場合がある。そういう書評は、言ってしまえば、殆どの人にとって役に立たないだろう。だから発表する際は、事実の指摘や客観性を大事にするべきだと思う。ただ、読者の大多数は主観で作品を読むだろう。それならば、主観も大事な気はする。
一つ。書評を発表する際には、その書評が誰の役に立つのか自答する。
作品を貶しているだけのものだとしたら、それは一体、誰が得するのか? 作者は凹む、作品が好きな読者は怒る、作品を嫌いな読者は加速するだけで、それは果たして得なのか?
(追記)完全に主観でこれといった根拠もなく貶す場合、といった方が良いか。
・見かけた本
すばる新人賞の「桃山ビート・トライブ/天野純希」が面白そうでならない。
本来ならば、時代劇にカタカナ、横文字を使うのは(南蛮文化を使うのならともかく)御法度であろう。しかし本作は「ビート・トライブ」などといい、それがしっくり来るという題材を取っている。それが凄い。
このように、本来はタブーだとされていることを成立させる土壌を作るという行為は、新しい領域に踏み出すための良い手段に思えた。
最近、書評関連の記事を見かけることが多かったので、簡単に自分の考えを書いておこうと思う。というのも、卒論締め切り前につき更新意欲が湧かないのである(しかし小説は一本書いた)。
一つ。書評は自分のためにした方が良い。
どんなにつまらない作品でも、そこから面白さを引っ張り出せた方が面白いからだ。書き手としても読み手としても、面白い方が得だと前田は思う。
一つ。何が面白くないかを考えるのも勉強になる。
これは書き手としての意見。いうなれば、面白さの境界条件である。「これをしたら絶対に面白くならない!」というものを持っているのは、自分のミスを減らすことに繋がると思うし、逆に、面白いものを生み出すきっかけにもなりえるだろう(後述する「見かけた本」に詳細)。
一つ。書評を発表する際に、客観性を大事にする。
面白い、つまらない、といっても、結局は「自分に合うか合わないか」という問題でしかない場合がある。そういう書評は、言ってしまえば、殆どの人にとって役に立たないだろう。だから発表する際は、事実の指摘や客観性を大事にするべきだと思う。ただ、読者の大多数は主観で作品を読むだろう。それならば、主観も大事な気はする。
一つ。書評を発表する際には、その書評が誰の役に立つのか自答する。
作品を貶しているだけのものだとしたら、それは一体、誰が得するのか? 作者は凹む、作品が好きな読者は怒る、作品を嫌いな読者は加速するだけで、それは果たして得なのか?
(追記)完全に主観でこれといった根拠もなく貶す場合、といった方が良いか。
・見かけた本
すばる新人賞の「桃山ビート・トライブ/天野純希」が面白そうでならない。
本来ならば、時代劇にカタカナ、横文字を使うのは(南蛮文化を使うのならともかく)御法度であろう。しかし本作は「ビート・トライブ」などといい、それがしっくり来るという題材を取っている。それが凄い。
このように、本来はタブーだとされていることを成立させる土壌を作るという行為は、新しい領域に踏み出すための良い手段に思えた。