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・コメント返信
>kisaさん
 確かに書かれた。


・スパン
 相変わらずの久々更新。出力はめんどうだ、ということ。そんなこと言ってたら小説なんて書いてられんのだけど。


・面接
 大学院の入試が終了。果たして結果は如何に。


・読書
「SHORT PROGRAM 3/あだち充」が発売されていた。購入。短編集。1989年の作品から、2007年の作品まで。武論尊原作の作品もあった。
 恐るべしと感じたのは「天使のハンマー」。84Pの最下段の表情が凄い。大きなショックを受けたのは解るのだが、それだけではない、言葉を使って表せない表情をしていた。少なくとも前田の力では表現できない。だからこそなのか、この作品の最重要ポイントになっていると思う。
 ミステリと動機は切っても切れない関係にあるが、果たしてどのような動機がいいのか。愛憎だとか金だとかは解り易く、多くの人に納得される動機だろう。異常な動機(乱歩の孤島の鬼だとか)は解り難いが、読者に鮮烈なものを与えることができる。「天使のハンマー」はどちらにも区分できないような気がした。動機は解るが、その解る動機だけでは人を殺すに足りないのだ。その動機を加速させるような「何か」があって、結果、殺してしまった、というようになっていると思う。その「何か」が現れているのが84Pの表情であって、この作品に於ける圧倒的な説得力であり、その複雑さときたら人間の持つ複雑さそのものなのだ。言葉にはできないようなことで人は人を殺す。そこに前田はリアルな人間があると感じた。
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・シガーキス
 本日、この名詞を知った。なるほど、非常に解り易い。


・犯罪
 日本の犯罪者の90%超は「A」を日常的に観ている。また、刑務所では「A」の観賞を制限している。つまり「A」が原因となって犯罪を起こしているのだと考えられる。よって、「A」は根絶されるべきである。
「A」とは何か? 答えはテレビのコンテンツ。
 この考えは明らかにおかしいよね。


・ジェネレータ
 某所の記事を受けて、考えてみた。
 製作法が簡単化されると、生み出されるものの質は落ちる。多分、これは本当の話だと思う。
 理由は「オリジナルの価値」にある。オリジナルの功績とは、最初にそれをやった(作った)ということである。目新しく(かつ面白い)となれば、多数の人間はこれに飛びつく。そして一部の人間が「模倣」を始める。「オリジナル」の何を採用するかということにもよるが、「模倣」も面白くなれる。「模倣」するにしても、それには工夫や試行錯誤が必要だ。つまり別のオリジナルを付加する必要がある。
 ところが、この「模倣」の方法論が非常に簡単化されるとどうなるか? 言い換えれば、誰でも「模倣」できるようになるとどうなるか? 答えは単純で、大量に作られる。みんな「オリジナル」を面白いと思っているから、自分の「模倣(コピィ)」も面白いと思ってしまうのだ。だから、作られる。しかし実際には、そこに「オリジナル」のような価値はない。多少の改変によってコピィした人間のオリジナルは付加されるが、それは非常に弱い(だから誰でも作れる)。従って、面白くない。
 このことに気づけない大衆は多量の「コピィ」を作り出す。すると「オリジナル」から生まれたジャンルにあるコンテンツが薄まる。面白い作品も存在するが、それよりもつまらない作品の方が圧倒的に多い、という状態になるということ。
 具体的な例で解り易いのが2chの「コピペ」やニコニコ動画の「歌ってみた」などだろう。どちらも最初にやった人(コンテンツ)が最も凄い。真似される殆どのものはつまらない。どちらも簡単に真似できるし、コピペは事実ジェネレータが存在するものもある。
 小説でもジェネレータに近いものは存在する。ロラン・バルトの「物語の構造分析」がその一つのようだ。
 以下はかなり憶測である。
 小説は多分に筆者のオリジナルが入り込み、誰にでも書けるというものではないから、このようなジェネレータで面白いものを書くことは可能だろう。しかしそのような小説は名作にカウントされないのではないだろうか? 一時期、日本のミステリ会では松本清張の登場により、社会派ミステリが大ブームとなった。多量の社会派ミステリが書かれたが、果たして、未だに読まれる社会派ミステリ作家は、清張以外に誰かいるのだろうか? 前田は謙遜でも何でもなく寡聞なので知らない。


・読書
「地球儀のスライス/森 博嗣」を読んでいる。短編集。何度目かは既に憶えていない。執筆に対する感覚が鈍ると、前田はこれを読むことにしている。
 そんなわけで「文鳥・夢十夜/夏目漱石」と「河童・或阿呆の一生/芥川龍之介」が途中で止まってしまった。
 理由は他にもあって、単純に、解らん。特に前者の「永日小品」が難しい。日常すぎる。保坂みたいにすらすらと気持ちよく読める文章でもないし。困った。
・コメント返信
>OECさん
 情報感謝でありました。早速覗いてみると、コミュニティよりも、そこに張られていたリンクの方が面白かったとさ。


・絶望先生的会話
「あなたもリトルバスターズがお好きですか」
「君もLITTLE BUSTERSがお好きですか」
「「なんか意外です」」


・マミー
 例の飲み物である。久々に飲んだが、やはり美味かった。


・はくち
 坂口安吾である。残念ながら漢字変換されない。
 原作ではなく映画を借りてきた。少女性の一側面として、果たして参考になるだろうか?


・試験前
 研究室で試験勉強→HUNTER×HUNTERを読む→帰宅
 という、恐るべきコンボ。

・読書
 院試前で、読書量減衰。純文学は読むスピード遅いというのも原因。

「三毛猫ホームズの推理/赤川次郎」読了。実は初赤川。
 恐るべきトリックだった。しかしそこしか憶えていない。読んでいる最中は何だかんだと考えたはずなんだが、忘れてしまった。
 もう一冊「MISSING/本多孝好」読了。短編集。やはり初本多であった。
 デビュー作「眠りの海」は佳作という印象。主人公の感情がべたべたしているし、ミステリとしての伏線も結構、あからさま。しかし、二作目以降、見事なまでに成長が見られた。上記の弱点が見事に改良されている。ミステリとしては特に「祈灯」が前田は好きだ。伏線のさりげなさ、哀しい犯人と動機。
 最も好きな話は「瑠璃」。ヒロインの死が一つの結末になり、且つ、その死が唐突な場合、冒頭で結末を明かしてしまうのは、なるほど、一つの手段かもしれない。それよりも自分が好きなのは「変化」だ。時間の経過と共に、場所の意味が変わっていく、その変化が面白かった。風景描写の方法論も、前田の持論が支持されているようで、少し励まされたし。
 総合して、かなりの当たり。第一印象としては、伊坂文章+乙一システム。伊坂ほど使わないが、「巧い」という表現が見られた。これからも読んでいきたい作家である。
・論考
 オタク文化に関係した論考を上げているblogをよく見かける。単に前田が探していないだけなのか、或は筆者がいないからなのかは分からないが、一般文芸及びその周辺について論じているblogって、あんまりない気がする。書評サイトとか観ても、前田が観た範囲では、感想ばかりだった。アレクセイ氏のとこは、流石プロだけあって、凄いけれど。
 実際には、ちゃんと探せば、前田の求めるような書評サイトだってあるはずだ。


・DVD
 二日くらい前に「犬神家の一族」を観た。金田一役は石坂浩二だが、最近のやつじゃなくて昔の方である。ホラーな感じがしなかったのは、前田が最初から本格ミステリを決めてかかっているからか、それとも、演出などの問題か。
 ラストのどんでん返しが結構面白く感じた。乙一のミステリと似ている。作品のカテゴリ(ジャンル)をひっくり返すという技法だ。どちらも最後で、物語を本格ミステリに移行させている。
 ただし、その効能が違う気がする。乙一の場合、ミステリでない作品をミステリに移行させるのだが、この場合、驚きが先立つと思う。突然、ミステリとしての真相が突きつけられるというのが理由だ。読者はそれまでミステリとして読んでおらず、つまり、犯人探しなどを念頭に置いていないために、犯人を当てようがない(ラーメンズの手品コントも、乙一ミステリと同様である)。
 犬神家の場合は、変格ミステリから本格ミステリへの移行だった。この場合、読者に与えるのは驚きではないだろう。多分、最後の推理の見事さが強調される。一旦提示したものを却下して、再度提示するというやり方は、イメージ書き換えの強調表現と同じだからだ。


・難度が高い
 上記の文章を読んでいて、改めて気づいたのだが、前田は「物語の流れ」について論じるのが苦手なようだ。物語の一部分をとりあげて云々、ということばかり言っている。
 流れとはなんだろう? 音楽性と訳する人もいるし、そこに何かのヒントがあるのだろうか。音楽について論ずるのは一つの勉強か?


・読書
「河童・或阿呆の一生/芥川龍之介」を読んでいる。新潮文庫。
 実家にあったものなのだが、発行が昭和40年代。価格、なんと120円。
・電車
「鉄子の旅」というアニメを観た。原作は漫画。ほんとに電車に乗るだけの話で、ターゲットを狙い過ぎな気がする。しかし、これだけで漫画を成立させるのは凄い。話としては全然面白くない気がするが、こういう、マイナな題材の漫画は好きだ。
 なお、前田は長時間の電車旅で主に読書か睡眠を行う。駅弁を買った記憶は、無い。こぼれ落ちたわけではないと思う。


・こんなところに直木賞
 実家に帰ったら、処分する本として江國香織の「いつか記憶からこぼれおちるとしても」と「号泣する準備はできていた」があった。ソフトカバーとハードカバー。他にも芥川とか梶井基次郎とか阿刀田高とか。貰う。お陰で帰りの荷物が増えた。


・読書
「推理小説/秦建日子」読了。作者の名前が難読。はた たけひこ。男性。
 漱石を読んでいたこともあってか、文章がとても速く読めた。悪くいえば脚本に近いが、良く言えば、情報伝達の速い文章。小説のエンタテイメント性は「物語」「キャラクタ」「文章」にあるようだが、欲張って全部使うのではなく、一つか二つを使う方が良いのかもしれない。
 構成の印象は「ミステリ的群像劇」(群像劇の定義がよく分からんから、完全に前田語になっているが)。一つの事件を複数視点から追う、という形。このあたり、アンフェアじゃなくてフェアじゃないだろうか?
 キャラクタ描写として、雪平の「無駄に美人」というのが面白いと思った。所謂、美の相対化というやつだと思う。雪平の美人描写は、対象をデッサンすることで「美人」を示すタイプだった。このようなやり方は鼻につきやすいと思うが、そこに「無駄」というマイナスを入れることで、その問題を(ある程度は)解消できている気がする。

 もう一つ「夏と冬の奏鳴曲/麻耶雄嵩」読了。
 文章の質が上の「推理小説」と真逆。「そんな細かい描写はいいから物語をすすめてくれ!」という感想がまっさきに浮かんでしまった。特に最初から何か事件が起きるわけではないため、余計にそう思う。「姑獲鳥の夏/京極夏彦」も序盤は一向に話が進まないが、こちらは面白く読めた。この差は一体何だろう? 文章の巧さだとか、描写・説明と蘊蓄の違いと言ってしまえばそれまでな気がするが……。
 さて、肝心の物語である。wikipediaの要出典という、恐るべき信頼の無さを持つ情報であるが、何でもこの作品は五つ目の奇書の候補らしい。さらにアオリには「最後の一言が凄い」みたいな文句が(前田はこの手のアオリが好きである)。だから頑張って読んだのだが……解らなかった。謎が残りまくって、何が凄いのかもさっぱり解らなかった。webで解説を見つけて読んだのだが、何が凄いのかは解らないまま。お陰で感想は「ちくしょう」である。誰か前田にこの作品の凄さを教えてくれ。
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