忍者ブログ
[54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

・日記
 本棚を購入。一万五千円ちょい。実を言うと、引越しの一番の楽しみは、大きくて使いやすい本棚の導入であったりする。来月からは、本を前後に並べなくても済むのだ。何と素晴らしいことか。
 ただし引越しの準備は完了していない。
 あと、引越し予定日に雨が降る確率が大きくて、ガックシしておる。

 引越しの際には、物品の取捨選択が行われる。何を持っていって、何を捨てようかということだ。これを全て自分で行うのは気持ち良いものだと思った。
 現在住んでいる部屋への引越しの際は、親の手伝いがあったため、取捨選択を一人で行わなかった。思いもよらない必要なものを持ってくることが可能であったが、反面、決して使わないようなものまで持ってきてしまった(つい最近、この類のものを多量に発見した)。
 そのような状態は良くないと感じる。自分の生活空間をきちんと自分で把握しておきたいからだ。
 感性についても、これと同様のことがいえないだろうか?
 感性というのは、物事の受け取り方である。例えば小説を読んで感想を持つとき「何のために、どのような理由から、どんなことを思ったのか」を明文化できると、自分が小説を書く場合に役立つであろう。
 特に感性の場合、あらゆる物事・事物について有効であるから、日々の生活で上記のような明文化の訓練を行うことができる。お得。

 たった今、二つ隣の部屋に住んでいる友人からジュースの差し入れがあった。嬉しいものである。今年度で前田も友人も現在の部屋を出る。二年間の付き合いは意外と短いものだが面白かった。モノより思い出。
 卒業シーズンっぽいことを書いてみた。明らかに前田のガラではない。しかも前田はまだ卒業しない。


・読書
 引き続き「13階段/高野和明」を読んでいる。
 最初に提示された謎もなかなか面白いと思うが、それよりも、主人公達への感情移入がページを捲る動力源となっていると感じた。この感情移入を行うために、社会(正確には、死刑制度や刑法)への不満・反感というものが描かれている。これが主人公の動機であり、動機を理解できるが故に感情移入が起きる。
 真相開示で明らかになる動機ではなく、作品途上で描かれる人物の動機付けは、このような解りやすいものが良いようだ。
 ミステリで重要な位置を占めるのが動機である。書き方本などではしばしば「解りやすい動機を設定せよ」と書かれている。嫉妬や復讐などだ。
 この手の意見に自分は反対である。常人ならば考えられない理由から罪を犯す犯人というものが、自分は好きなのである。
PR
・日記
 隣の芝生は青いという言葉を真とする。人の能力は環境に左右されることを考えると、他人の能力や才能に羨望しない状況というのはありえないことになってしまう。
 ただし、羨望の対象は空間的ではなく、時間的な隔たりの上での他人でも良い。例えば、過去の自分などである。
 と、そんなことを思いつつ、今の前田なら、高校に演劇部があったとして、入部してみたいと思っている。


・言い訳
 少々、具体的には二日ほど、blogの更新をサボった。言い訳とも言えぬ言い訳としては、他のことをしていたからだ(これだけの文章に、言の字が三つも! しかも言い訳になっていない)。
 既に身に染み付いた習慣を一時的に中断した場合、中断した時間にも依るだろうが、再開は非常に楽である。機会が与えられれば、以前と同じように続行できる。一方、習慣付けようとしていたことを中断した場合、再開するのには多少の苦痛を伴い、簡単に以前と同じように続行することは難しい。
 これは、以前に書いた思考の高低に由来するのではないかと思う。つまり、習慣化されたことは低い位置にあり、習慣化されていないことは高い位置にある、ということ。後者を習慣化するための過程は、自発的ではない化学反応に似ているだろう。縦軸にポテンシャルをとったとき、真ん中が大きな山となる、あのグラフである。
 習慣化されていない状態では、中くらいの高さである。これを習慣化しようとして、日々実行するようになると、高い山を登ることとなる。そして山の頂点を越えると段々低くなり、最初の状態よりも低い位置までくると、習慣となる。
 習慣化しようと日々実行している状態=山を登ろうとする状態で休止すると、低い位置に落ちてしまう。落下による差分は、時間に比例し、これが大きいほど、中断前の状態に持っていくのが困難となる。
 自然科学ならば、差分だけのポテンシャルが顕在化するが、これは習慣化に使われることはない。別のことに使われてしまう。

 そんな訳で本日は、文章練習を省略し、現在執筆中の作品を書こうと思う。


・読書
「人間は考えるFになる/森 博嗣|土屋賢二」読了。
 書き下ろしで「消えたボールペンの謎/土屋賢二」と「そこに論点があるか、あるいは何もないか/森 博嗣」が収録されていた。
 後者のトリックが途中で分かったこともあってか、自分は「消えた~」の方が面白かった。語り口とでも言うのか、笑いの詰め込まれた文章が非常に面白かった。
 土屋賢二の笑いの特徴はどういうものだろうか。
「A→B→Cという論理の流れに対して、Aに関して無意味に考え(トートロジィを使用するのは一つの手段)、突然Cの結論を導く」
「相手の思考を自分の都合の良いように予想し、直後、当人に完璧に否定される」
 少なくとも、この二つがあるのではないかと思った。

 森博嗣が自身の小説の書き方を解説していたが、天才でもない限り、この方法を採用すべきではないと思った。凡人である前田としては、プロット構築の手法として採用するのが適当ではないかと感じる。
・日記
 引越し準備中。オーディオシステムをほぼ解体し(この表現は合っているのだろうか?)、スピーカなどを梱包した。現在はアンプとヘッドホンのみが使える状態にある。これが無いと音楽を聴けないからだ。今現在も音楽を聴きながらこの文章を読んでいる。
 テンプレートを拝借しよう。これが成立すると見なして話を進める。
「世の中には二種類の人間がいる。音楽を聴きながら集中できる人間と、集中できない人間だ」
 このように分類されるのは「集中」の状態に個人差があるからではないか、と思った。例えば前田の場合は、音楽を聴いていると集中できない。これは前田にとって「集中=或る一つの思考に対するノイズがない(または少ない)状態」であるからだ。ここでいうノイズとは、その思考とは関係のない情報を指す。
 音楽は思考に関係のない外部からの情報だ。従ってノイズであり、集中の妨げとなる。
 また、ノイズは外部からだけでなく、内部からのものもある。関係無いことについての思考が内部からのノイズだ。
 ノイズがあるために集中できないというのはつまり、ノイズのために他のこと=目的の思考ができないということだ。これは「同時に二つ以上のことを考えられない」ことに由来する。従って、ノイズの消去は単純で、目的の思考でノイズを追い払う(感覚的には塗り潰す)と良い。だから集中するのは疲れるのだ。
 この方法が正しいことは、「集中=目的の思考ばかりする」というトートロジィになっていることからいえると思う。
 さて、どうして二つ以上のことを同時に考えられない=パラレルな思考ができないのであろうか。理由の可能性として、言葉で思考しているから、というものが挙げられそうである。実際、言葉と映像を同時に思考することは、極めて短時間だが、できないことはない。

「音楽を聴きながら集中できない→パラレルな思考ができない」ならば「音楽を聴きながら集中できる→パラレルな思考ができる」なのだろうか? 論理学的には必ずしも成立していないが。


・引越し準備
 全然着たことがない(そもそも見た記憶さえない)衣服が沢山出てきた。内臓脂肪のようなものだろうか。生活空間にある物品くらいは把握しておくべきだろうという反省。


・toward
 現時点で、十七回目の再生。既に160分以上か。飽きる気配はまだない。
 ながらで聴く方が多いので、歌詞を憶えていない。


・文章練習「坂を登る」
 早く他の街に引越したい。理由はあまりに単純で、他の人にとってはどうでもいいことだろう。そのくらいの自覚はある。
 この街は坂が多い。
 車も原付も持っておらず、移動は専ら自転車だから、下りは楽だけど上りが大変になる。苦あれば楽ありというが、僕にとっては楽あれば苦ありといった方がしっくりとくる。楽じゃなくて、苦が強調されているのだ。それならば、最初から楽がない方がいい。
 その苦が段々近づいていきた。次の交差点を左に曲がれば坂が始まる。今走っている道のようにずっと平坦ならどれだけいいか。せめて坂の下に引越せば良かった。
 ギヤを一番軽いのに切り替えて、ハンドルを左に切った。カーブもない、長い長い坂の入り口。
 後はもう、ひたすらペダルをこぐだけだ。サドルはしばらくいらない。ペダルの上に立ち、両腕と胸に力を込めて上半身をハンドルに近づける。その反面、脚を使ってペダルを踏み込み、体を自転車から遠ざける。
 覆われたような痛みを手首に感じて、何とかペダルが回ってくれる。呼吸だって難しくなったように思える。
 なかなか進まないから、バランスも悪くなってしまう。フラフラとハンドルが左右に振れて、自分の体重が頼りない。
 坂なら坂で、ずっと上りならいいのに、あちこちにでこぼこがある。センチ単位で下り坂があっても、全然嬉しくない。ハンドルがふらついて上手く操作できないから、避けようもなくでこぼこにぶつかってしまう。
 坂の半分あたりまで来ると、呼吸をしていることを思い出さざるを得なくなる。今まで無酸素運動だったのにと思うと、自分の体力の無さがうらめしい。大きな息が吐き出されて、喉が痛い。こんなところにも楽あれば苦あり。ずっと無酸素で自転車をこげたらいいのに。


・読書
「人間は考えるFになる/森 博嗣|土屋賢二」を購入。「13階段/高野和明」は小休止して「人間は~」を読んでいる。前田はもしや無趣味ではないのか?という疑惑が持ち上がった。
・コメント返信
>kisaさん
 お勧め有難うございました。感想の述べ合い、楽しみにしております。


・思考
 昨日書いた「観客というリアリティ」について。手記形式や日記形式もこれに近いということに気づいた。一人称のものも、遠くはないと思う。
 作中人物が読者を意識しているかどうかを考えると、「観客というリアリティ」の高低は手記>日記>一人称の順になっている気もする。
 二人称はどうなのだろう? あれは「読者を作中にいると錯覚させるリアリティ」を目指すもののように思える。それだけに、よほど巧くやらないと大失敗するのではないだろうか。自分の知る範囲では「疾走/重松 清」ぐらいしか該当作品がない。気になる。


・日記
 本日よりwebサイトの更新再開。マンガ家、施川ユウキが神に思えてくる時期である。

 ACIDMANのアルバム「green chord」を聴いた。一番気に入ったのはよりにもよって「toward」。十分を超える長い曲なので友人連中とカラオケに行くときには歌えない。それ以前に前田は音痴なので、この曲は難しい。「and world」といい「廻る、巡る、その核へ」といい、ACIDMANの長い曲は困る。
 ACIDMANも、デビュー当時と今では相当変わったと言われるバンドの一つであろう。このことについては賛否両論あるだろうが、前田は今のACIDMANも好きである。
 勿論、変わったと思う。では何が最も変わったと思うのかというと、歌詞だ(曲調は変わったというよりも、幅が広がったと形容したい。確かに「造花が笑う」や「シンプルストーリー」「FREAK OUT」のような曲は少なくなっていると思うが)。
 昔の歌詞は、面白い文章がよく使われていた。良く言えば独特、悪く言えば意味不明である。サールナートなんて単語、大抵の人は知らないと思うし(広辞苑にも載ってなかった)、鉄の冷める音を聴いたことがある人はそうそういないだろう。昔の歌詞は抽象的なイメージしかできないものが多かった気がするのだ。
 これが、歌の「what」の面白さである。歌詞=whatという捉え方。対して曲調や歌い方なんかがhow。前田は今のACIDMANのhowも好きだが、whatは昔の方が断然好きだ。

 このwhatとhowであるが、何も歌だけに限らず、色んなものに適用できる概念だと前田は考えている。小説の文章ならば、描写の対象がwhatで、文体や形容詞がhowに当たるのではないだろうか。比喩はどうなのだろう……。前田はwhatに分類されると思う。
 面白い描写、面白い文章を書くには、このwhatを追求する必要があるはずだ。故に、文章を書くためには観察眼が要求される。


・ピコーン!
 舞城王太郎は関係がない。ただ閃きを表現したかっただけである。
 日記と思考を分けなくてもいいんじゃないかと思い始めてきた。


・文章練習「坂道下り」
 油が切れているのかタイヤの空気が抜けているのか分からないが、自転車のペダルが重いことは確かだった。サドルは硬い。心なしか車体も歪んでいる。乗り心地が悪い。
 マイナスだらけだが、坂の下りだと帳消しになる。トンネルを抜けるまでの辛抱だ。
 足に力を込めて、オレンジの光から出る。左折すれば、後はもう、落ちるように車輪が回ってくれた。
 ペダルの上に立てば尻も平気だ。夜の寒さくらいは我慢しよう。時期は春と冬の境にある。耳たぶの冷たさも、厳しくはない。
 道路の脇の木が視界の片隅で遠ざかる。並ぶ街頭の白が頭上を飛んでいく。
 揺れるハンドルだけが道路の変化を教えてくれる。スピードの中では見えるはずのない、アスファルトの表面。
 首の裏、撫でられるような感触。後ろ髪を梳くのは静止した風。動いているのは自分。
 加速を続ける車輪に少しだけ摩擦をかけながら、道の先端へ急速に向かっていく。
 何の匂いもしないのは、きっと、何も聞こえていないのと同じことだ。


・読書
「13階段/高野和明」を読み始める。まだ読み始めただけ。法律関係のことをガンガンやられるのでは?という危惧はある。法律は苦手。
 あ!「ニューロマンサー/William Gibson」が途中だった!
・日記
 電車に乗って十時間の移動はやはりダルい。車中では睡眠と読書しかしておらぬ。

 ダ・ヴィンチ編集部による小説の書き方本が本屋を巡っても売られていない。注文しろということか? しかしとりあえず立ち読みで内容を確認したい。注文はためらう。


・文章練習「車窓」
 どうせ電車の中じゃやることもない。窓枠に肘をついて、頬杖しながら外を眺めている。電車はあんまり揺れていなかったから、頬を押す手の甲は不快じゃない。
 現れる端から消えていく近景。いつまでもある遠景。同時に追うと鋭くも鈍くもない痛みが眼の裏側に溜まる。電車が速ければなおさらだ。
 だからいつも、呆っと遠くを見ることにしている。そうすれば線路に近い家や、道路を走る車や、あちこちに立つ電柱はすぐに消えていってくれる。声みたいなものだ。いくら叫んでも、一瞬たりとも残ってはくれない、声。
 遠くの山の形はなかなか変わらない。雲の形は……どうだろう? 風があるからか、山よりも変わっていっている気がする。けれど光でできた陰影は止まっている気がする。白い雲。ちょっとだけ陰った雲。山に落ちた雲の陰。
 青い空との境界が一番白い。晴れた日の雲だっていろいろあるんだと気づかされる。
 最初に変わったのは、やっぱり近景だった。視界の中に縦線が入っては消え、入っては消えとしていることで、ああ、橋の上なんだな、と分かった。
 下を見れば川だった。
 止まって観れば、きっと水面が太陽の光をきらきらと流していただろう。そんなときにだけ、私は水が柔らかいことに感謝する。
 けど私は今、動いている。ほとんど真下にある水は一瞬しか視界に入らない。その瞬間の光の煌きしか見ることができない。写真みたいに眼に焼きついた波はまるで、粘土みたいだった。
 私は今、時速何キロで走っている?


・読書
「大東京三十五区 冥都七事件/物集高音」を読了。作者の名前が難読。もづめたかね。
 想像していたのとまるで、それこそ反対というくらいに、雰囲気が違っていた。読み始めは「読みにくそう」「好みの雰囲気ではなさそう」と感じたが、いざ読み進めると面白い。解説でも触れられていることだが、文体のためだ。
 今まで自分は、小説の理想形とは「読者が登場人物と同じ目線に立ち、作中人物であるように錯覚できるもの」であると考えていた。今作はこの考えを覆してくれた。冥都七事件は、この理想形を絶対に実現しないが、読者を小説の世界に引き込むリアリティがある。
 そのリアリティというのが「物語を読んでいる(或いは聴いている)」というもの。読者を最初から物語の場から遠ざけて、語り手の話を聞かせるような文体。講談を聞いたことはないが、恐らく、そのような感覚だろう。
 この文体のポイントとしては「擬音語・擬態語の使い方」「視点保持者の心理を長々と書かない」「言葉のリズム」といったところか? 真似るのは非常に難しいだろう。
忍者ブログ [PR]