・日記
小林賢太郎の一人舞台「POTSUNEN」を観た。maruの方。
演劇の内容よりも、小林賢太郎の演技や芸の方が凄いと思う。足音のパントマイムとか、どれだけ練習したんだ。
公演の内容としては、ラーメンズのライブやKKPの方が前田は好み。
・思考
「ダ・ヴィンチ」を読んでいて思ったのだが、作家のインタビューとかは前田にとってあんまり意味ない。その作家のファンであり、その作家について知りたいと思っているときは別であるが、そうでない場合の方が多いからだ。
作家の創作能力に関して言及されるときは、大抵、自分との力量差を突きつけられるだけだし、創作以外の話には益がない。その作家の私生活などの真似をすれば作家になれるというわけでもなし。
創作以外の話から創作のヒントを見つけろと言われればそれまでではあるのだが、そんなヒントはそれこそわざわざインタビューから拾うものでもないだろう。
逆に、作家志望の人間のインタビューとかどうだろうか。作家になるために何をしているかとか、そういったことを聞いたりするのである。一人だけじゃなくて沢山の人間にインタビューする。自分でやったことのない、考えたことのない方法論とか聞けて、なかなか面白いかもしれない。
ついでに、創作に関する悩みなんかも訊こう。作家の卵同士の交流もしよう。傷の舐め合いでもすれば最高である。舐め合っている人間は、ひとまず競争から外れてくれるはずだ。倍率を下げる画策。
・読書
「アンノウン/古処誠二」を引き続き読んでいる。
魅力の一つは、簡単に解ることではあるが、軍人らしからぬ自衛隊員か。上官に対する畏敬を持ち、近い階級の人間と接するときはゆるい若者。
小林賢太郎の一人舞台「POTSUNEN」を観た。maruの方。
演劇の内容よりも、小林賢太郎の演技や芸の方が凄いと思う。足音のパントマイムとか、どれだけ練習したんだ。
公演の内容としては、ラーメンズのライブやKKPの方が前田は好み。
・思考
「ダ・ヴィンチ」を読んでいて思ったのだが、作家のインタビューとかは前田にとってあんまり意味ない。その作家のファンであり、その作家について知りたいと思っているときは別であるが、そうでない場合の方が多いからだ。
作家の創作能力に関して言及されるときは、大抵、自分との力量差を突きつけられるだけだし、創作以外の話には益がない。その作家の私生活などの真似をすれば作家になれるというわけでもなし。
創作以外の話から創作のヒントを見つけろと言われればそれまでではあるのだが、そんなヒントはそれこそわざわざインタビューから拾うものでもないだろう。
逆に、作家志望の人間のインタビューとかどうだろうか。作家になるために何をしているかとか、そういったことを聞いたりするのである。一人だけじゃなくて沢山の人間にインタビューする。自分でやったことのない、考えたことのない方法論とか聞けて、なかなか面白いかもしれない。
ついでに、創作に関する悩みなんかも訊こう。作家の卵同士の交流もしよう。傷の舐め合いでもすれば最高である。舐め合っている人間は、ひとまず競争から外れてくれるはずだ。倍率を下げる画策。
・読書
「アンノウン/古処誠二」を引き続き読んでいる。
魅力の一つは、簡単に解ることではあるが、軍人らしからぬ自衛隊員か。上官に対する畏敬を持ち、近い階級の人間と接するときはゆるい若者。
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・コメント返信
>無為さん
「完成度が高い」という言葉には「文章の良さ」も含んでいるつもりです。
説明に近い風景描写(何処に何があるかだけを記したような文章)なんかは、映像の方が恐らく適しているでしょうね。
・思考
やはりコメント返信の一部か。文章と映像の違いについて、思いついたこと(思いついた、では思考ではないのではないか?)。
違いの一つは「情報伝達の速さ」。
例として無為さんの挙げた林檎を出してみる。林檎一つを示すには、文章だと色や形や大きさや切れ込みが入っているのかとか、色々書かなければならず、正確な「その林檎」の情報を取得するのに時間がかかる。しかし映像なら「その林檎」を見るだけでいい。
もう一つの違いは「正確に伝達できる情報の種類」。
文章だと、正確に伝わる情報は「文字」であり「言葉」である。「赤い林檎があった」という文章が正確に伝えるのは「赤い林檎があった」という文字のみだ。そしてこの文字を解釈して得られる情報は個人差がある(全ての人がまったく同じ林檎を思い描くとは限らない)。
映像の場合は、正確に伝わる情報は「映像」だ。赤い林檎を見せたとき、全ての人は同じ像を見るわけだが、そこから受ける印象に個人差が生まれてくる。「旨そうだ」「ずいぶんと色が濃いな」「品種はジョナだろうか?」「何で宙に浮いている?」とか、色々。
文章は「図形」が不正確で「印象」が正確。映像は「図形」が正確で「印象」が不正確というべきだろうか。「美人」を示すのが好例だろうか。文章だとみんな「美人だ」という印象を受けるが、浮かべる美人像は人それぞれ。映像だと「美人」を見せられるが、全ての人が「美人だ」と思うとは限らない。
文章と映像の変換が難しいのは、以上のような「速度」と「精度」に由来すると思う。
・購入録
「チーム・バチスタの栄光/海堂 尊」
父が買ってくれた。文庫化は相当先のことだろうから、感謝である。
・読書
「鉄道員/浅田次郎」読了。結構時間かかったな。
とりあえず、総じての感想は「静的な物語」であるということ。登場人物たちの心的・身的変化の原因となる出来事が小さい、という意味。ハリウッドとは真逆の性質と表現すると解り易いかもしれない。
この手の物語を読ませるには高い技術を必要とすると思う。特に人間を描くことが巧くないと駄目なのではないだろうか。
bump of chickenの「銀河鉄道」も、歌詞が静的な物語になっている。鉄道繋がり。けど「鉄道員」は静的ではないと思う。繋がってない。
にしても、昨日の俺の「うらぼんえ」に対する感想はひどいと思った。見たまんまのことを書いてどうするのだ。
現在は「アンノウン/古処誠二」を読んでいる。なんで文春文庫なのだろう? 講談社と喧嘩でもしたのだろうか。
風景描写をかなり省いていると感じている。一人称故のこと、か? 人物のやりとりを重点的に書いている印象。
>無為さん
「完成度が高い」という言葉には「文章の良さ」も含んでいるつもりです。
説明に近い風景描写(何処に何があるかだけを記したような文章)なんかは、映像の方が恐らく適しているでしょうね。
・思考
やはりコメント返信の一部か。文章と映像の違いについて、思いついたこと(思いついた、では思考ではないのではないか?)。
違いの一つは「情報伝達の速さ」。
例として無為さんの挙げた林檎を出してみる。林檎一つを示すには、文章だと色や形や大きさや切れ込みが入っているのかとか、色々書かなければならず、正確な「その林檎」の情報を取得するのに時間がかかる。しかし映像なら「その林檎」を見るだけでいい。
もう一つの違いは「正確に伝達できる情報の種類」。
文章だと、正確に伝わる情報は「文字」であり「言葉」である。「赤い林檎があった」という文章が正確に伝えるのは「赤い林檎があった」という文字のみだ。そしてこの文字を解釈して得られる情報は個人差がある(全ての人がまったく同じ林檎を思い描くとは限らない)。
映像の場合は、正確に伝わる情報は「映像」だ。赤い林檎を見せたとき、全ての人は同じ像を見るわけだが、そこから受ける印象に個人差が生まれてくる。「旨そうだ」「ずいぶんと色が濃いな」「品種はジョナだろうか?」「何で宙に浮いている?」とか、色々。
文章は「図形」が不正確で「印象」が正確。映像は「図形」が正確で「印象」が不正確というべきだろうか。「美人」を示すのが好例だろうか。文章だとみんな「美人だ」という印象を受けるが、浮かべる美人像は人それぞれ。映像だと「美人」を見せられるが、全ての人が「美人だ」と思うとは限らない。
文章と映像の変換が難しいのは、以上のような「速度」と「精度」に由来すると思う。
・購入録
「チーム・バチスタの栄光/海堂 尊」
父が買ってくれた。文庫化は相当先のことだろうから、感謝である。
・読書
「鉄道員/浅田次郎」読了。結構時間かかったな。
とりあえず、総じての感想は「静的な物語」であるということ。登場人物たちの心的・身的変化の原因となる出来事が小さい、という意味。ハリウッドとは真逆の性質と表現すると解り易いかもしれない。
この手の物語を読ませるには高い技術を必要とすると思う。特に人間を描くことが巧くないと駄目なのではないだろうか。
bump of chickenの「銀河鉄道」も、歌詞が静的な物語になっている。鉄道繋がり。けど「鉄道員」は静的ではないと思う。繋がってない。
にしても、昨日の俺の「うらぼんえ」に対する感想はひどいと思った。見たまんまのことを書いてどうするのだ。
現在は「アンノウン/古処誠二」を読んでいる。なんで文春文庫なのだろう? 講談社と喧嘩でもしたのだろうか。
風景描写をかなり省いていると感じている。一人称故のこと、か? 人物のやりとりを重点的に書いている印象。
・日記
本日もバドミントンをしてきた。
先週も似たようなことを書いたが、やはりこの手の競技でものを言うのは頭脳だと思う。相手を操作するとかそんなレベルの話でなくても、もっと低いレベルでそう感じ取れる。
例えば、1/1000秒でも早く先を予測することは重要だと思う。これは頭脳の成せる技だ。そして予測を立てるには、正確な情報収集が必要となる。これはつまり観察力であり、感性であるともいえないだろうか。
フィジカルは、頭脳によって組み立てられる行動を実現し易くするためのものである。また、頭脳を長く使うには体力が必要になる。だから体力面でのトレーニングは非常に重要。
作家というのも、似たようなものだと思う。スポーツ選手よりもフィジカルの重要性が低いだけ。
・購入録
雑誌「ダヴィンチ」を購入。購入理由は伊坂幸太郎特集にある。
本の魅力とは「これはすごい」「この考えは思いつかん」と思えるところにある、という意見に非常に納得し、そして自分の作品にそんなものはないなと思い、がっくり。
ダヴィンチ編集部で小説の書き方本を出すらしい。発売は今月十六日。買おう。
・創作
とても面白いとは思えない文章ができあがっていく。
何故面白くないかといえば、リアリティがないから、と思える。視点保持者の上っ面を撫でているだけの文章に思えるからだ。
さて、リアリティとは何だろうか。岸辺露伴曰く(荒木飛呂彦とは書かない)、リアリティこそがエンタテイメントであるからこのことを考えるのは重要であると思う。
今のところ「事象の認識過程」と「人物の内面描写(せめて説明)」がリアリティのある文章に繋がると思っているが、さて……。
・読書
相も変わらず「鉄道員/浅田次郎」。だんだん読むのが辛くなってきた。本日は「伽羅」「うらぼんえ」を読了。
「伽羅」は話に決着が付いていない気がする。ただ、人物の内面に入っていけた気がするし、描写も上手いと思えた。文章で楽しむ作品だろうか。分析していくのは創作の役に立つ予感がする。
「うらぼんえ」は昨日述べたような「仲間がいるのはいいなぁ」が見えた。ただし敵中に仲間がいるわけではないので「ピンポン/松本大洋」とはかなり異なる印象。
今更気づいたが「バガボンド/井上雄彦」のおつうと城太郎も、敵中の味方じゃないじゃないか。
本日もバドミントンをしてきた。
先週も似たようなことを書いたが、やはりこの手の競技でものを言うのは頭脳だと思う。相手を操作するとかそんなレベルの話でなくても、もっと低いレベルでそう感じ取れる。
例えば、1/1000秒でも早く先を予測することは重要だと思う。これは頭脳の成せる技だ。そして予測を立てるには、正確な情報収集が必要となる。これはつまり観察力であり、感性であるともいえないだろうか。
フィジカルは、頭脳によって組み立てられる行動を実現し易くするためのものである。また、頭脳を長く使うには体力が必要になる。だから体力面でのトレーニングは非常に重要。
作家というのも、似たようなものだと思う。スポーツ選手よりもフィジカルの重要性が低いだけ。
・購入録
雑誌「ダヴィンチ」を購入。購入理由は伊坂幸太郎特集にある。
本の魅力とは「これはすごい」「この考えは思いつかん」と思えるところにある、という意見に非常に納得し、そして自分の作品にそんなものはないなと思い、がっくり。
ダヴィンチ編集部で小説の書き方本を出すらしい。発売は今月十六日。買おう。
・創作
とても面白いとは思えない文章ができあがっていく。
何故面白くないかといえば、リアリティがないから、と思える。視点保持者の上っ面を撫でているだけの文章に思えるからだ。
さて、リアリティとは何だろうか。岸辺露伴曰く(荒木飛呂彦とは書かない)、リアリティこそがエンタテイメントであるからこのことを考えるのは重要であると思う。
今のところ「事象の認識過程」と「人物の内面描写(せめて説明)」がリアリティのある文章に繋がると思っているが、さて……。
・読書
相も変わらず「鉄道員/浅田次郎」。だんだん読むのが辛くなってきた。本日は「伽羅」「うらぼんえ」を読了。
「伽羅」は話に決着が付いていない気がする。ただ、人物の内面に入っていけた気がするし、描写も上手いと思えた。文章で楽しむ作品だろうか。分析していくのは創作の役に立つ予感がする。
「うらぼんえ」は昨日述べたような「仲間がいるのはいいなぁ」が見えた。ただし敵中に仲間がいるわけではないので「ピンポン/松本大洋」とはかなり異なる印象。
今更気づいたが「バガボンド/井上雄彦」のおつうと城太郎も、敵中の味方じゃないじゃないか。
・思考
今日の前田は思考していないくさいので人間ではない模様。三日坊主という言葉が浮かんだ。
・創作
本文書きの時期にあたっても、新作のプロットを考えなければと思う。
コンディションはネガティブ。精神的な話。
愚痴を「愚痴があるよ」で済ませられるのは、長所と見るべきか短所と見るべきか。
・読書(けっこうネタバレ)
「ピンポン/松本大洋」を最終巻の半分まで読んだ。
ペコのおおまかなストーリィラインは「自分を強者だと思っている→強敵にボコボコにされ、挫折する→周囲の助けにより復帰→修業→かつて自分を負かした相手に勝利」。
スマイルのおおまかなストーリィラインは「強者の影に隠れて、闘志がない→理解者からの影響で闘志を燃やす→強者となり、周囲からは孤立する」
全部読んだわけではないが、大体、こんな感じだと思う。
さて、何が面白いのだろうかと考えた場合、どうも前田はストーリィライン以外の部分に目が行ってしまう(ストーリィ自体はベタっぽいから、別にいいとは思うのだが……)。
一番良かったのが、スマイルがチームメイトから孤立していく中で、唯一理解を示してくれる大木の存在だ。勝利を目指すスポーツ漫画(特訓と試合、競技に関する挫折と栄光を描いている)であるから、最高の価値観の一つは「勝利」である。
スマイルはひたすらにこれを目指すが、ついていけない部員達はスマイルに反感を持つ。読者は部員達に(極端な二元論で言う)悪の印象を持ち、スマイルに善の印象を持つ。そんな中、悪であるはずの部員内に善であるスマイルに共感し、応援するものがいるというのは非常に気分の良いものではないだろうか。読者の「善を応援したい」という願いが、作中で叶えられるわけである。大木は初めの方でイヤなキャラだっただけに効果が大きそうだ(イヤな態度をとっていた理由も、スマイルを応援する理由に重なる。これがキャラ造形の一側面だろうか)。
「バガボンド/井上雄彦」でいうと、大木の位置はおつうと城太郎になる気がする。ただし武蔵の場合はもともと一人だ。この点が大きく違う(バガボンドは一人でも問題ないが、ピンポンの舞台は部活であり仲間も大切であるから、読者は孤立がまずいと感じる)。バガボンドの武蔵−おつうの関係は、ピンポンだと風間−佐久間の関係の方が近いか?
今日のタイトルはスマイルが佐久間に言った台詞。キツいことをさらりと言ってしまえるキャラクタに魅力を感じるか反感を覚えるかは人それぞれか? 前田はスマイルのマシーンっぷりが結構好きである。
今日の前田は思考していないくさいので人間ではない模様。三日坊主という言葉が浮かんだ。
・創作
本文書きの時期にあたっても、新作のプロットを考えなければと思う。
コンディションはネガティブ。精神的な話。
愚痴を「愚痴があるよ」で済ませられるのは、長所と見るべきか短所と見るべきか。
・読書(けっこうネタバレ)
「ピンポン/松本大洋」を最終巻の半分まで読んだ。
ペコのおおまかなストーリィラインは「自分を強者だと思っている→強敵にボコボコにされ、挫折する→周囲の助けにより復帰→修業→かつて自分を負かした相手に勝利」。
スマイルのおおまかなストーリィラインは「強者の影に隠れて、闘志がない→理解者からの影響で闘志を燃やす→強者となり、周囲からは孤立する」
全部読んだわけではないが、大体、こんな感じだと思う。
さて、何が面白いのだろうかと考えた場合、どうも前田はストーリィライン以外の部分に目が行ってしまう(ストーリィ自体はベタっぽいから、別にいいとは思うのだが……)。
一番良かったのが、スマイルがチームメイトから孤立していく中で、唯一理解を示してくれる大木の存在だ。勝利を目指すスポーツ漫画(特訓と試合、競技に関する挫折と栄光を描いている)であるから、最高の価値観の一つは「勝利」である。
スマイルはひたすらにこれを目指すが、ついていけない部員達はスマイルに反感を持つ。読者は部員達に(極端な二元論で言う)悪の印象を持ち、スマイルに善の印象を持つ。そんな中、悪であるはずの部員内に善であるスマイルに共感し、応援するものがいるというのは非常に気分の良いものではないだろうか。読者の「善を応援したい」という願いが、作中で叶えられるわけである。大木は初めの方でイヤなキャラだっただけに効果が大きそうだ(イヤな態度をとっていた理由も、スマイルを応援する理由に重なる。これがキャラ造形の一側面だろうか)。
「バガボンド/井上雄彦」でいうと、大木の位置はおつうと城太郎になる気がする。ただし武蔵の場合はもともと一人だ。この点が大きく違う(バガボンドは一人でも問題ないが、ピンポンの舞台は部活であり仲間も大切であるから、読者は孤立がまずいと感じる)。バガボンドの武蔵−おつうの関係は、ピンポンだと風間−佐久間の関係の方が近いか?
今日のタイトルはスマイルが佐久間に言った台詞。キツいことをさらりと言ってしまえるキャラクタに魅力を感じるか反感を覚えるかは人それぞれか? 前田はスマイルのマシーンっぷりが結構好きである。
・コメント返信
>無為さん
長編を映画にすると削らなければならない部分があり、それがよろしくないと、そういうことですかね。なるほど、それは同意です(姑獲鳥の夏の悲劇)。
かといって、短編を一時間半以上で映画化するのも疑問。それだけ保つとは思えないし、余計なものが足されているのではないかと疑ってしまうので。
映画化というのはつまり表現技法の変化で、原作が完成されているほど困難ではないかと思うのです。
・思考
格言、名言というものがある。これらは一見、真理をついているようなものもあり、発言者が偉大であるほど感銘を受けやすいと思う。例えば前田は小説家に憧れを持っているため、作家の述べる創作の精神論を大事にしたがる。
しかし感銘を受けるということと、その言葉が自身にとって必要なのかどうかは別問題だろう。場合によっては「格言に合っていない」という理由で行動を中止するという、逃げの口実になる可能性がある。このような逃げは状況に合わせているとはいえず、恐らく、危険性が高い。
前田が思う「良い格言」とは、その格言を思い浮かべるだけで感情を操作することができるような言葉だ。格言だけで暗い気持ちを明るくできたり、無気力をやる気満々にできたりするような言葉。そんな格言がその人にとっての真理の一つであり、従って、格言・名言は個人によって違ってくる。
人間は成長するに従って大きな社会に進出することを余儀なくされる。同時に、周囲との軋轢・齟齬も生まれてくる。そんな時に自分の感情をコントロールできる格言を持っているのは、心強い武器になると思う。
・創作
本文を書き始めたが、非常に自分の文章が気持ち悪い。原因はリアリティが欠けている気がするからだ。冒頭から説明になっているので、文章にがっつりと気を遣うべきだとは思うのだが……。
行き詰まるとやる気がごっそり削がれるのは前田の悪い癖である。格言が欲しい。
・読書
引き続き「鉄道員/浅田次郎」を読んでいる。今日はあまり進まず「角筈にて」のみを読了。
>無為さん
長編を映画にすると削らなければならない部分があり、それがよろしくないと、そういうことですかね。なるほど、それは同意です(姑獲鳥の夏の悲劇)。
かといって、短編を一時間半以上で映画化するのも疑問。それだけ保つとは思えないし、余計なものが足されているのではないかと疑ってしまうので。
映画化というのはつまり表現技法の変化で、原作が完成されているほど困難ではないかと思うのです。
・思考
格言、名言というものがある。これらは一見、真理をついているようなものもあり、発言者が偉大であるほど感銘を受けやすいと思う。例えば前田は小説家に憧れを持っているため、作家の述べる創作の精神論を大事にしたがる。
しかし感銘を受けるということと、その言葉が自身にとって必要なのかどうかは別問題だろう。場合によっては「格言に合っていない」という理由で行動を中止するという、逃げの口実になる可能性がある。このような逃げは状況に合わせているとはいえず、恐らく、危険性が高い。
前田が思う「良い格言」とは、その格言を思い浮かべるだけで感情を操作することができるような言葉だ。格言だけで暗い気持ちを明るくできたり、無気力をやる気満々にできたりするような言葉。そんな格言がその人にとっての真理の一つであり、従って、格言・名言は個人によって違ってくる。
人間は成長するに従って大きな社会に進出することを余儀なくされる。同時に、周囲との軋轢・齟齬も生まれてくる。そんな時に自分の感情をコントロールできる格言を持っているのは、心強い武器になると思う。
・創作
本文を書き始めたが、非常に自分の文章が気持ち悪い。原因はリアリティが欠けている気がするからだ。冒頭から説明になっているので、文章にがっつりと気を遣うべきだとは思うのだが……。
行き詰まるとやる気がごっそり削がれるのは前田の悪い癖である。格言が欲しい。
・読書
引き続き「鉄道員/浅田次郎」を読んでいる。今日はあまり進まず「角筈にて」のみを読了。