以下は、俺が昔書いた文章。現在も、この考えはあまり変わってないと思う。
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何が言いたいかというと、「思考」というものにはその内容云々について分類可能であるってことだ。その分類とは「再生」「記憶」「読解」「演繹・帰結」「創造」だ。内容は次の通り。
・再生
既知の情報を思い出す思考。昨日は何食ったっけ?とか。習慣とかもこれに分類する。
・記憶
まんま。憶えること。
・読解
外からの情報を処理し、理解する思考。本を読んだり、人の話聴いたりするときの思考。
・演繹・帰結
外からの情報を基に、別の情報を構築する思考。会話のときとか、計算するときとか。
・創造
既知の情報を基に、別の情報を構築する思考。小説書いたり、作曲したり。
これらの思考には、個人差はあれど、「高低」が存在するはずだ。高低ってのは、文字通りの高低。位置エネルギー。高いほど不安定で低いほど安定。そして、不安定な思考ほど、他の思考に転びやすい。俗にこのことを「集中力が無い」と表現したりもする。
高い位置にある思考ってのは、色々と厄介だ。まず、その思考状態に持っていきにくい。何故なら高いから。そして、簡単に思考が止まったり、他の分類の思考に移りやすい。何故なら高いから。このような‘高い’思考は、その思考を使いまくることで段々と低くなる。これが練習ってやつの目的であろう。‘高い’のを‘低く’できれば、それが当然の如くにできるようになるからだ。
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この思考の分類の中で、メモが代替できるのは「再生」と「記憶」だ。俺が重要と考えているのは他の三つ「読解」「演繹・帰結」「創造」である。この三つについての訓練が、このblogの主目的になるといえよう。
・思考
webサイト「解の無い方程式」で宣言した通り、別スペースにて思考を色々と書くことにした。当初はmixiでやろうかとも思ったが、blogをmixiの日記にはりつけることも可能であるので、こちらでやろうと思う。
自分自身への確認事項であるが、このblogを書く目的は「思考すること」である。日々、きちんと何かを思考するための起動力(またはモチベーションと呼ばれるもの)の確保だ。発表の場があるほうが、やる気を出せる。あとは、長く続くことを祈るばかりだ(祈る対象は神ではなく、自分自身である)。
ここで一つ疑問が浮かんだ。
果たして、ここに書く事柄をメモ帳に記してストックしておくことは有用か否か?
「考えるリスト」を作成するのであれば、これは有用だが、一度考えた事柄をメモるのである。この行為に果たして意味はあるのだろうか。
そもそも、重要なのは思考するという行為そのものにある。発表することにあるのではない。「思い出す」という行為も思考の一つと捉えるならば、メモらない方が思考することになるだろう。
しかし、思い出すという思考に意味はあるのだろうか? 考えるべき点はここだ。
シンプルに考えよう。思い出すのは、人間じゃなくてもできるから、大して意味はない。よって、メモを使えばよい。
数学の公式で重要なのは覚えることではなく、どのように使うかということだ。
・創作文芸
サークルの冊子のための作品を考案中。短編ミステリ。
メイントリックを考えたので、そろそろプロット構築を始められると思う。というか、始めないと締め切りに間に合わない。
・ノベライズ
マンガ「羊のうた/冬目 景」のノベライズを行っている。目的は文章練習と、感性の鍛錬。
まだまだ序盤。本日はマンガ相当で四ページほど書いた。台詞が多かったので、あまり練習にはなっていないと思う。よろしくないか。
この台詞であるが、今まではマンガの台詞は丸写しで、コマの絵を文章化する、というようにやっていた。これでいいのだろうか? 台詞も多少の改変が可能であると思う。その方がノベライズ作品としては良いものになる予感。
ノベライズのポイントは、絵を見ながら文章を書いていくのではなく、頭の中で明確な絵を描いて、それを文章化していくという方法でやった方が良い気がする。
・読書(「人工憑霊蠱猫01 蠱猫」と「鏡の中は日曜日」について、広義のネタバレを含む)
現在は「人工憑霊蠱猫01 蠱猫/化野 燐」を読んでいる。妖怪関連の小説で、作者が京極夏彦らと同じ「怪」チームのメンバだということで、以前から気になっていた作品。
タイトルの読みは「じんこうひょうれいこねこ」。しかし俺は「じんこうつきれいこねこ」と読んだ方が好きだ。「じんこうつきれい」だと、音読みの中に一箇所だけ訓読みがあることになる。このアクセントが気に入っている理由かもしれない。
読み始めて三日ほど経ったが、まだ第一章を読み終えた段階。90ページほど。遅いと思われる。
この時点では、好みに合う作品ではないようだ。理由は簡単。妖怪を「生物」として扱っている点にある。俺は民俗学的な概念としての妖怪が好きなのだ。冒頭でかなり書物の名前がでてくるので、多少、民俗学の期待をしたのだが、現時点ではそのようなことに触れられていない。
敵と味方の予感についてのミスリードが有効に働いていた。日常パートにて、敵になりそうな人物を強く予感させる。そして、実際に、敵にする。こうすることで、他の敵の存在を読者に悟らせないという手法になっているのではないだろうか。一旦正解を示してしまえば、他の点に思考がまわりにくくなるということだろう。「鏡の中は日曜日/殊能将之」でも同じ手法が成立している気がする。
作中には「有鬼派」と「無鬼派」という、対立している二つの派閥がある。学術的な対立だ。少なくとも片方がカルト教団というか、ファンタジィなことをやっているので、学術っぽくないが。
そこで思いついたのが「学術派閥対立小説」。ちゃんとした学術の論説についての争いを描いた小説を、俺は今まで読んだことがない。科学史の本では、何処かで扱われている気もするが。