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・人間から外れて場になる


 またもや場に関して。
 前回、場とはスポーツであり、パラメータとして「広さ」と「ルール」を持つとした。また、「選手たちが動くことでスポーツの場は進行していくのだが、そこに人間はいない。」と書いた通り、前田が場という小説の駆動を考えたい理由は「小説でいかに人間を書かないか」を考えたいからだ。
 言葉と人間の関係を考えていくことで小説に人間が登場することの価値が見えてくる、みたいなことを以前考えたけど、方法はもちろんそれだけじゃないはずで、人間から遠い小説を考えることでも、小説に人間が登場することの価値に近づけるんじゃないか?
 それに、小説に人間は登場しすぎている。小説という表現形態が登場してから人間はこれでもかというくらいに小説に書かれ続けてきた。人間というものも時代に沿って変化していくのだから、人間が小説の要素として飽きられるなんていうことにはならないと思う。が、それでも人間は小説の要素として今まで書かれ過ぎているんじゃないか?
 そのようなわけで、場、である。
 前回は、登場人物が場に奉仕する思考・勝利に繋がる行動を取ることで人間がいない、などと書いた。しかしこれだけで小説の駆動が人間ではないような作品を書くことができるのか? 勝利条件としてテーマ・イメージを採用し、登場人物がテーマ・イメージに奉仕するような思考・行動を取ったところで、普通の人間が駆動となっている小説との峻別を図ることができるのか?
 できないのではないか?
 テーマ・イメージ、あと場のパラメータであるルールを設定して登場人物を奉仕させるように動かすというのは、単に書き手の方法論の域を脱しないのではないか?
 というか、テーマやイメージとはもともとそういうものだ。登場人物を含む全体がそこに向かっている、ということを以て「そこ=テーマ・イメージ」となるはずだ。
 今更気づいたのだが、スポーツにおける勝利者は一人(1チーム)のみということを考えると、勝利条件=テーマ・イメージとはならないのではないか。登場人物=選手とするなら、必ず誰か敗北するのだ。テーマ・イメージは達成されない。
 ……いや、しかし、例えばサッカーや野球の勝利条件と、体操やフィギュアスケートの勝利条件は、対戦相手がどこにいるかという観点において、全く違う。前者は「如何に相手の勝利条件を崩すか」と表現することが可能であり、後者は「如何に自分を勝利条件に近づけるか」と表現できる。小説で場を使うならば、体操的な勝利条件だろう……。だが方法論としては野球的でもいいだろう……。

 閑話休題。
 前田が書きたいのは、場で小説を駆動させて人間を薄めるということだ。スポーツの比喩はどうやって小説を駆動させるか、という問題になると思う。上で書いた通り、その駆動方法だけでは人間を駆動にしたものと区別できないだろうと思う。
 だからやはり、場……「広さ」と「ルール」のパラメータを持った人間でないものを書くにはどうすればいいのかというところに問題がいく。それも、場は人間と入れ替わらなければならない。主体を人間ではなく場に変更するとでもいうのか……。主体を人間からズラすとでもいうのか……。
 ルールは場を支配しなければならないし、広さは場になければならない。広さとは空間についてだけではなく、時間についても適用される概念だ。
 前回の広さの例文では
「福井県西暁町にいる主人公が通り魔と対決している間にも、広島県南条町では子どもを三人持つおかあさんが買い物カゴに大根を放り込んでいる。」
 などと書いたが、しかしこれは広さの表現としては良くない。理由は、不連続的だからだ。広さは、カメラの視界として広い範囲を撮るということであって、別の場面をカットインして表現されるものではない。
 時間についても同様のことが言えるかもしれない。

 以上のような意識を持って、注意深くあれば、小説の主体を場とすることができるのではないか?
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