・購入録
「言葉・狂気・エロス/丸山圭三郎」
「境界の発生/赤坂憲雄」
「谷川俊太郎詩集/谷川俊太郎」
「4TEEN/石田衣良」
「ハリウッド脚本術/ニール・D・ヒックス」
「犬の行動学/E・トルムラー」
結構な出費であった。
・気づいたこと
最近、村上春樹とあだち充の面白さは同じものなのではないかと思い始めた。どちらも恋愛感情に対しての距離感があると、ただ、そう感じただけのことだけど。そしてそのアプローチとして、あだち充は空だけのコマを描いているのではないかと、そんな風に思う。果たして。
・読書
「一億三千万人のための小説教室/高橋源一郎」を読んでいる。友人から借りた。保坂和志のものと同じく、小説とは何かを考えるところから始める技術・理論書。
かなり勉強になる予感がする。読んだ範囲で特に興味深かったのが「小説が書かれる前の状態を楽しむ」ということ。書こうと思っているけど書き出せない、そんな中で考えるということ。伊藤たかみがどこかで言っていたのだが(確か、芥川賞を取ったころだと思う)、「登場人物が全く個人的な事情(登場人物にとっての個人的な事情)でどこかに行ってしまったので、当初考えていたものと、冒頭が全く変わってしまった」ということがあるらしい。高橋源一郎の言う「小説が書き出される前を楽しむ」ということと、何だか繋がっているように思える。
他には「独特の角度で世界を見るということ」「変な世界も楽しむ」ということ。特に前者に感銘を受けたような気がする。またもや伊藤たかみであるが、氏の作品で「この砂を触ったら不老不死になることにしようぜ」というアオリのものがあった気がする(ドライブイン蒲生だっけ?)。そんなアオリを生み出す方法がつまり「独特の角度で世界を見る」ということなのだという実感があった。
では、どうすれば変な角度で世界を見ることができるのか。簡単に思い浮かぶのが自殺である。死を体験した人は生きてはいないのだから、死ねば世界を違った角度で見ることができるはずだ(これが本当だとしたら、自殺した文学者は少なからず上記のようなことを考えていたのかもしれない、とか思う)。けれど前田は死にたくないので、他の方法を探すわけである。日常ではしないことをするとか、物の間違った使い方とか。そういうことが、小説に繋がってくるだろう、たぶん。
と、いうことで、今から夜の大学のグラウンドに行って、本を投擲してきます。
「言葉・狂気・エロス/丸山圭三郎」
「境界の発生/赤坂憲雄」
「谷川俊太郎詩集/谷川俊太郎」
「4TEEN/石田衣良」
「ハリウッド脚本術/ニール・D・ヒックス」
「犬の行動学/E・トルムラー」
結構な出費であった。
・気づいたこと
最近、村上春樹とあだち充の面白さは同じものなのではないかと思い始めた。どちらも恋愛感情に対しての距離感があると、ただ、そう感じただけのことだけど。そしてそのアプローチとして、あだち充は空だけのコマを描いているのではないかと、そんな風に思う。果たして。
・読書
「一億三千万人のための小説教室/高橋源一郎」を読んでいる。友人から借りた。保坂和志のものと同じく、小説とは何かを考えるところから始める技術・理論書。
かなり勉強になる予感がする。読んだ範囲で特に興味深かったのが「小説が書かれる前の状態を楽しむ」ということ。書こうと思っているけど書き出せない、そんな中で考えるということ。伊藤たかみがどこかで言っていたのだが(確か、芥川賞を取ったころだと思う)、「登場人物が全く個人的な事情(登場人物にとっての個人的な事情)でどこかに行ってしまったので、当初考えていたものと、冒頭が全く変わってしまった」ということがあるらしい。高橋源一郎の言う「小説が書き出される前を楽しむ」ということと、何だか繋がっているように思える。
他には「独特の角度で世界を見るということ」「変な世界も楽しむ」ということ。特に前者に感銘を受けたような気がする。またもや伊藤たかみであるが、氏の作品で「この砂を触ったら不老不死になることにしようぜ」というアオリのものがあった気がする(ドライブイン蒲生だっけ?)。そんなアオリを生み出す方法がつまり「独特の角度で世界を見る」ということなのだという実感があった。
では、どうすれば変な角度で世界を見ることができるのか。簡単に思い浮かぶのが自殺である。死を体験した人は生きてはいないのだから、死ねば世界を違った角度で見ることができるはずだ(これが本当だとしたら、自殺した文学者は少なからず上記のようなことを考えていたのかもしれない、とか思う)。けれど前田は死にたくないので、他の方法を探すわけである。日常ではしないことをするとか、物の間違った使い方とか。そういうことが、小説に繋がってくるだろう、たぶん。
と、いうことで、今から夜の大学のグラウンドに行って、本を投擲してきます。
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・もしも世界が5人の僕だったら
もしも世界が5人の僕だったら、1人は群集に、1人は歴史に、1人は心理に、1人は人体に、1人は文学に興味を持つだろう。
文学に興味を持った1人は、世界に「僕」しかいないことに気づくだろう。
「僕」しかいないことに気づいた1人は、絶望に気づくだろう。
そして初めの1人が首を括った。
1人が首を括ったことに気づき、心理に興味を持った1人は考察を始めるだろう。
1つの死体があることに気づき、人体に興味を持った1人は研究を始めるだろう。
死体に反応する2人に気づき、群集に興味を持った1人は観察を始めるだろう。
次々と動き出した3人に気づき、歴史に興味を持った1人は記録を始めるだろう。
やがて考察が終わり、心理に興味を持った1人は考えることがなくなるだろう。
やがて死体は風化し、人体に興味を持った1人の研究の材料はなくなるだろう。
やがて2人は何もしなくなり、群集に興味を持った1人は何もしなくなるだろう。
やがて3人に変化がなくなり、歴史に興味を持った1人は記録しなくなるだろう。
そしてみな、興味の対象を失って、文学に眼を向け始めた。
・発想の出発点
「100人の森博嗣/森 博嗣」の前書きで「世界がもし100人の森博嗣だったら……」という文章があったことを思い出して、書いてみた。
もしも世界が5人の僕だったら、1人は群集に、1人は歴史に、1人は心理に、1人は人体に、1人は文学に興味を持つだろう。
文学に興味を持った1人は、世界に「僕」しかいないことに気づくだろう。
「僕」しかいないことに気づいた1人は、絶望に気づくだろう。
そして初めの1人が首を括った。
1人が首を括ったことに気づき、心理に興味を持った1人は考察を始めるだろう。
1つの死体があることに気づき、人体に興味を持った1人は研究を始めるだろう。
死体に反応する2人に気づき、群集に興味を持った1人は観察を始めるだろう。
次々と動き出した3人に気づき、歴史に興味を持った1人は記録を始めるだろう。
やがて考察が終わり、心理に興味を持った1人は考えることがなくなるだろう。
やがて死体は風化し、人体に興味を持った1人の研究の材料はなくなるだろう。
やがて2人は何もしなくなり、群集に興味を持った1人は何もしなくなるだろう。
やがて3人に変化がなくなり、歴史に興味を持った1人は記録しなくなるだろう。
そしてみな、興味の対象を失って、文学に眼を向け始めた。
・発想の出発点
「100人の森博嗣/森 博嗣」の前書きで「世界がもし100人の森博嗣だったら……」という文章があったことを思い出して、書いてみた。
・コメント返信
>しも
映画化していたのか。そいつは知らなかった。そして積むことは間違いない。GOの優先度はちょいと低め。
・購入記録
「週刊朝日別冊 小説 トリッパー」
久々に小説雑誌を購入。川上未映子や本谷有希子、万城目学らのインタビューとか、高橋源一郎の「13日で名文か書けるようになる方法」という講義録に釣られた。
「封印サイトは詩的私的手記/森 博嗣」
うっかり購入してしまったが、いつ読み終わるやら。
・読書
「OverDrive/安田剛士」の単行本をちょこちょこと読んだ。ロードレースが題材ということで楽しみにしていたのだが、漫画の中身は前田の趣味と合わず、残念。
理由は「競技を通して人を描く」のではなく「描かれた人が、競技をしている」という点にある。選手各人に個人的な事情があって、その個人的な事情を回想という形で描いていることが多いと思う。恋愛とか友情とか家庭とか。そういったことも書けばいいと思うが、しかしそれはロードレースという競技と直接的に関わらない部分だと前田は思う。例えば、好きな女の子が応援してくれているからといって、一位にはなれない(いつも以上の力を発揮することはできるかもしれないが、それだけで勝てるほど、競技というのは甘くないだろう)。OverDriveではレース中に個人的事情を回想させ、さらに回想直後、選手に何らかの変化(速くなったり)がある。そのため、本来関わらないことが直接に関わるように見えた。こういう、ある種の精神論を前田は好かない。
ふたつ目が「ファンタジィである」こと。フィクションであることだし、誇張表現を行うのは問題がないと思う。しかし前田が気になるのは表現ではなくて、選手の態度のことだ。競技中に完全に停車して長時間休んでおきながら、最終的にはトップ争いに食い込むとか。「停車する」という辺り競技をナメているし、しかもそんな選手が異常な追い上げを見せる。こんな演出に納得がいかない。前述した「好きな女の子が応援してくれているから速くなる」ということも、ファンタジィだと思う。
以上のふたつの点で「スラムダンク/井上雄彦」と比較すると、スラムダンクは非常に前田好みであることが分かる。精神論のあり方とか。友情だなんだといっても、それは思っているだけでは意味がなく、友情に相応しい行動をしてこそ、友情といえる。そんな感じ。
スラムダンクで、三井はチームメイトを徹底的に信頼し、殆どスタミナのない身体でパスを受け、スリーを決める。信頼という精神を出発点にして、行動と結果で応えている。OverDriveで、ミコトは「タスキは遥輔さんからしか受け取れない」といってしばらくタスキを受け取らず、結果としてチームの暫定順位は下がった。友情のようなことをいっているけど、その実、懸命に走った遥輔に応えていないのではないか?
以上のように大きな文句はあるけど、OverDriveという漫画自体は、何だかんだで読んでしまう。ナレーションみたいに入る解説とか、非常に面白い。絵も好みであるし。
またもや比較で井上雄彦だけど「スポーツを題材にしながら人物の個人的事情も描く」という漫画では「リアル」が凄いと思う。題材は「車椅子バスケット」。この時点で個人的な事情に踏み込まざるを得ないし、そして踏み込むのが当然だと感じる。更にこの作品、最初に出てくるメインになる登場人物は健常者だ。
あと、不細工な男をカッコよく書けるのって、凄いと思う。
>しも
映画化していたのか。そいつは知らなかった。そして積むことは間違いない。GOの優先度はちょいと低め。
・購入記録
「週刊朝日別冊 小説 トリッパー」
久々に小説雑誌を購入。川上未映子や本谷有希子、万城目学らのインタビューとか、高橋源一郎の「13日で名文か書けるようになる方法」という講義録に釣られた。
「封印サイトは詩的私的手記/森 博嗣」
うっかり購入してしまったが、いつ読み終わるやら。
・読書
「OverDrive/安田剛士」の単行本をちょこちょこと読んだ。ロードレースが題材ということで楽しみにしていたのだが、漫画の中身は前田の趣味と合わず、残念。
理由は「競技を通して人を描く」のではなく「描かれた人が、競技をしている」という点にある。選手各人に個人的な事情があって、その個人的な事情を回想という形で描いていることが多いと思う。恋愛とか友情とか家庭とか。そういったことも書けばいいと思うが、しかしそれはロードレースという競技と直接的に関わらない部分だと前田は思う。例えば、好きな女の子が応援してくれているからといって、一位にはなれない(いつも以上の力を発揮することはできるかもしれないが、それだけで勝てるほど、競技というのは甘くないだろう)。OverDriveではレース中に個人的事情を回想させ、さらに回想直後、選手に何らかの変化(速くなったり)がある。そのため、本来関わらないことが直接に関わるように見えた。こういう、ある種の精神論を前田は好かない。
ふたつ目が「ファンタジィである」こと。フィクションであることだし、誇張表現を行うのは問題がないと思う。しかし前田が気になるのは表現ではなくて、選手の態度のことだ。競技中に完全に停車して長時間休んでおきながら、最終的にはトップ争いに食い込むとか。「停車する」という辺り競技をナメているし、しかもそんな選手が異常な追い上げを見せる。こんな演出に納得がいかない。前述した「好きな女の子が応援してくれているから速くなる」ということも、ファンタジィだと思う。
以上のふたつの点で「スラムダンク/井上雄彦」と比較すると、スラムダンクは非常に前田好みであることが分かる。精神論のあり方とか。友情だなんだといっても、それは思っているだけでは意味がなく、友情に相応しい行動をしてこそ、友情といえる。そんな感じ。
スラムダンクで、三井はチームメイトを徹底的に信頼し、殆どスタミナのない身体でパスを受け、スリーを決める。信頼という精神を出発点にして、行動と結果で応えている。OverDriveで、ミコトは「タスキは遥輔さんからしか受け取れない」といってしばらくタスキを受け取らず、結果としてチームの暫定順位は下がった。友情のようなことをいっているけど、その実、懸命に走った遥輔に応えていないのではないか?
以上のように大きな文句はあるけど、OverDriveという漫画自体は、何だかんだで読んでしまう。ナレーションみたいに入る解説とか、非常に面白い。絵も好みであるし。
またもや比較で井上雄彦だけど「スポーツを題材にしながら人物の個人的事情も描く」という漫画では「リアル」が凄いと思う。題材は「車椅子バスケット」。この時点で個人的な事情に踏み込まざるを得ないし、そして踏み込むのが当然だと感じる。更にこの作品、最初に出てくるメインになる登場人物は健常者だ。
あと、不細工な男をカッコよく書けるのって、凄いと思う。
・購入記録
「マザーグース1、3/谷川俊太郎訳」
「ONCE/谷川俊太郎」
「GO/金城一紀」
「限りなく透明に近いブルー/村上 龍」
「風の歌を聴け/村上春樹」
「FINE DAYS/本多孝好」
「十角館の殺人/綾辻行人」
「鏡の国のアリス/Lewis Carrol(岡田忠軒訳)」
「ロリータ/Vladimir Nabokov(大久保康雄訳)」
「マルドゥック・スクランブル/冲方 丁」
・読書
「つきのふね/森 絵都」読了。
以前友人が「文学では、タイトルになっているものの周辺で起きていることを扱うのが多い気がする」といったようなことを言っていたが、まさにそのような作品だと思った。「つきのふねの話」ではなく「つきのふねの周辺の話」。
モジュール形式のようにも思えた作品だった。主人公の抱える問題は複数あるけれど、それらを解決する出来事はひとつ。当たり前のことだけど、ここで気を付けなくてはいけないことは「ひとつの問題を解決すると、もうひとつの問題も解決に向かう」のではなく「ひとつの問題を解決する過程で、もうひとつの問題を解決する必要がある」ということ。言葉にすると似ているように見えるけど、別物。前者の極端な具体例は「壷を買ったら宝くじが当たるわ、出世するわ、彼女ができるわ、もう、ウハウハです」。「つきのふね」は、複数の問題の解決過程が全て最後に集約されているから、モジュール形式っぽく思えた……のかもしれない。
また「サマータイム/佐藤多佳子」を読了。表紙に描かれている自転車の意味が良く分からない。何故にドロップハンドルなんだ?
この本を読んでいる途中から、読み方を変えてみた。物語の持つ機能、つまり構造を考えるという読み方である。読書しながら、エピソードや登場人物を抽象化していく、という方法。これをやると物語の二次元的なチャート図を描けるので、なかなか面白い。そして頭が疲れる。
んで、本作の感想はというと……、いまいち思い出せないのが困ったところ。構造にばっかり眼がいって、内容から何も学べていない気がする。構造分析自体も、正しくできているかどうか自身はないし。
ただ、構造の面白さというのは、論理で詰められるような気はした。同じ構造を並べるとか、入れ子構造にするとか。
あと「鏡の国のアリス/Lewis Carrol(岡田忠軒訳)」も読了。
「主人公がその場所の案内人と関わる→次の場所へ→案内人と~」というのが基本的な流れに思えた。この点で何となく「日蝕/平野啓一郎」に似ていると思い、面白さの基本が「珍妙な案内人とへんてこな世界」にあるあたり「キノの旅/時雨沢恵一」に近いのだろうか、とも思った。
最後に「風の歌を聴け/村上春樹」を読了。
村上春樹は「ノルウェイの森」に続いて二冊目。ノルウェイ~の方はストーリィがあるけど終わりが唐突。風の歌~はストーリィがないように見えるけど、終わり方は自然。そんな印象。構造を意識しても、風の歌~は、各機能の間に繋がりがないように思えた。色んな機能の集合がそれぞれ独立に配置されていて、さらに、機能の集合内で形成している繋がりはみんな似ている(と思う)。
文体、文章が非常に前田好み。陳腐な言い方をすれば「波長が合う」。物事と距離を置いて覚めた眼で見ているような主人公が好きなのだと思う。特に、異性や死に対してそういった態度を取るのが好きだ。類似した作品として「ALONE TOGETHER/本多孝好」と「スカイ・クロラ/森 博嗣」が浮かんだ。そして前田が現在書こうとしている作品も類似している。先人がいるというのはそれだけでディスアドバンテージだけど、だからこそ、自分の味を出せれば……!というところ。前田に持ち味なんてもんがあればの話だけど。
ところで「つきのふね」と「風の歌を聴け」から共通して感じたこととして「マジックリアリズム」があった(言葉の使い方が合っているかどうかは怪しい)。つまり「ファンタジィみたいなものが出てくるように見える」ということ。ちょっと意識しておくと良いことかもしれない。
「マザーグース1、3/谷川俊太郎訳」
「ONCE/谷川俊太郎」
「GO/金城一紀」
「限りなく透明に近いブルー/村上 龍」
「風の歌を聴け/村上春樹」
「FINE DAYS/本多孝好」
「十角館の殺人/綾辻行人」
「鏡の国のアリス/Lewis Carrol(岡田忠軒訳)」
「ロリータ/Vladimir Nabokov(大久保康雄訳)」
「マルドゥック・スクランブル/冲方 丁」
・読書
「つきのふね/森 絵都」読了。
以前友人が「文学では、タイトルになっているものの周辺で起きていることを扱うのが多い気がする」といったようなことを言っていたが、まさにそのような作品だと思った。「つきのふねの話」ではなく「つきのふねの周辺の話」。
モジュール形式のようにも思えた作品だった。主人公の抱える問題は複数あるけれど、それらを解決する出来事はひとつ。当たり前のことだけど、ここで気を付けなくてはいけないことは「ひとつの問題を解決すると、もうひとつの問題も解決に向かう」のではなく「ひとつの問題を解決する過程で、もうひとつの問題を解決する必要がある」ということ。言葉にすると似ているように見えるけど、別物。前者の極端な具体例は「壷を買ったら宝くじが当たるわ、出世するわ、彼女ができるわ、もう、ウハウハです」。「つきのふね」は、複数の問題の解決過程が全て最後に集約されているから、モジュール形式っぽく思えた……のかもしれない。
また「サマータイム/佐藤多佳子」を読了。表紙に描かれている自転車の意味が良く分からない。何故にドロップハンドルなんだ?
この本を読んでいる途中から、読み方を変えてみた。物語の持つ機能、つまり構造を考えるという読み方である。読書しながら、エピソードや登場人物を抽象化していく、という方法。これをやると物語の二次元的なチャート図を描けるので、なかなか面白い。そして頭が疲れる。
んで、本作の感想はというと……、いまいち思い出せないのが困ったところ。構造にばっかり眼がいって、内容から何も学べていない気がする。構造分析自体も、正しくできているかどうか自身はないし。
ただ、構造の面白さというのは、論理で詰められるような気はした。同じ構造を並べるとか、入れ子構造にするとか。
あと「鏡の国のアリス/Lewis Carrol(岡田忠軒訳)」も読了。
「主人公がその場所の案内人と関わる→次の場所へ→案内人と~」というのが基本的な流れに思えた。この点で何となく「日蝕/平野啓一郎」に似ていると思い、面白さの基本が「珍妙な案内人とへんてこな世界」にあるあたり「キノの旅/時雨沢恵一」に近いのだろうか、とも思った。
最後に「風の歌を聴け/村上春樹」を読了。
村上春樹は「ノルウェイの森」に続いて二冊目。ノルウェイ~の方はストーリィがあるけど終わりが唐突。風の歌~はストーリィがないように見えるけど、終わり方は自然。そんな印象。構造を意識しても、風の歌~は、各機能の間に繋がりがないように思えた。色んな機能の集合がそれぞれ独立に配置されていて、さらに、機能の集合内で形成している繋がりはみんな似ている(と思う)。
文体、文章が非常に前田好み。陳腐な言い方をすれば「波長が合う」。物事と距離を置いて覚めた眼で見ているような主人公が好きなのだと思う。特に、異性や死に対してそういった態度を取るのが好きだ。類似した作品として「ALONE TOGETHER/本多孝好」と「スカイ・クロラ/森 博嗣」が浮かんだ。そして前田が現在書こうとしている作品も類似している。先人がいるというのはそれだけでディスアドバンテージだけど、だからこそ、自分の味を出せれば……!というところ。前田に持ち味なんてもんがあればの話だけど。
ところで「つきのふね」と「風の歌を聴け」から共通して感じたこととして「マジックリアリズム」があった(言葉の使い方が合っているかどうかは怪しい)。つまり「ファンタジィみたいなものが出てくるように見える」ということ。ちょっと意識しておくと良いことかもしれない。
・執筆
基礎的なことをやり直そうと物語作成の課題をやったりしつつ、次の作品のプロット作り。書くべきことが多いという状態は、集中力の足りていない前田にとって悪い状態ではないはずである。と信じたい。
今年の十月までに長編二つを完成させる目処を立たせたいが、さて。
・文芸に関する最近の疑問
小説以外の媒体、例えばマンガとかアニメとかで表現された物事について、表現を含めたその事物を小説で書くということを考えてきた。一言で言えば、ノベライズである。例えば文章だけで表現された風景で、写真の風景と同様の印象を与えることができれば凄い、という考えである。
けど、そんな凄さを本当に目指すべきか?
言ってしまえば、文章で表現する風景というのは、写真のそれにまず間違いなく敵わないのではないか?(情報が抜け落ちたりする、など)ならば、ノベライズしてもしょうがないのではないか?
じゃあ、小説では、一体、何を書けばいいのか?
答えの一つは舞城王太郎みたいな文体かなぁ、とか思う。保坂和志も「小説の言葉で書くのではなく、自分の普段の話し言葉で書け」といったことを言っていた気がする。
・読書
「ソロモンの指環/コンラート・ローレンツ」を読んでいる。著者はノーベル賞受賞者で、本作は動物行動学についてのノンフィクション。現在書こうとしている作品で犬を登場したくなったので、そのための資料本として購入。主に鳥と魚の興味深い行動について述べられていて、犬が少ないのが少々残念(しかし参考になった)。
動物というのは人間とは違うもの、人間のような社会を形成したり意思を伝える表現技法を持たないもの、そういった印象を持ってしまいがちだと思うが(人間社会には獣性という言葉がある)、ここに描かれている動物たちは逆である。人間のようであったり、人間より鋭敏な情報の授受をやってのける。暫定の感想としては「コクマルガラスすげえええええ!!!」
この本みたいな面白さって、正に知識欲の賜物で、フィクションをこの面白さだけで成立させるのは、殆ど無謀なんだろうなぁ、とか思う。あ、もしかして黒死館がそうか?
基礎的なことをやり直そうと物語作成の課題をやったりしつつ、次の作品のプロット作り。書くべきことが多いという状態は、集中力の足りていない前田にとって悪い状態ではないはずである。と信じたい。
今年の十月までに長編二つを完成させる目処を立たせたいが、さて。
・文芸に関する最近の疑問
小説以外の媒体、例えばマンガとかアニメとかで表現された物事について、表現を含めたその事物を小説で書くということを考えてきた。一言で言えば、ノベライズである。例えば文章だけで表現された風景で、写真の風景と同様の印象を与えることができれば凄い、という考えである。
けど、そんな凄さを本当に目指すべきか?
言ってしまえば、文章で表現する風景というのは、写真のそれにまず間違いなく敵わないのではないか?(情報が抜け落ちたりする、など)ならば、ノベライズしてもしょうがないのではないか?
じゃあ、小説では、一体、何を書けばいいのか?
答えの一つは舞城王太郎みたいな文体かなぁ、とか思う。保坂和志も「小説の言葉で書くのではなく、自分の普段の話し言葉で書け」といったことを言っていた気がする。
・読書
「ソロモンの指環/コンラート・ローレンツ」を読んでいる。著者はノーベル賞受賞者で、本作は動物行動学についてのノンフィクション。現在書こうとしている作品で犬を登場したくなったので、そのための資料本として購入。主に鳥と魚の興味深い行動について述べられていて、犬が少ないのが少々残念(しかし参考になった)。
動物というのは人間とは違うもの、人間のような社会を形成したり意思を伝える表現技法を持たないもの、そういった印象を持ってしまいがちだと思うが(人間社会には獣性という言葉がある)、ここに描かれている動物たちは逆である。人間のようであったり、人間より鋭敏な情報の授受をやってのける。暫定の感想としては「コクマルガラスすげえええええ!!!」
この本みたいな面白さって、正に知識欲の賜物で、フィクションをこの面白さだけで成立させるのは、殆ど無謀なんだろうなぁ、とか思う。あ、もしかして黒死館がそうか?