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・日記
 今日のことでは全くないのだが、帰省してすぐにバドミントンをした(バトミントンではなくバドミントンである)。およそ一年ぶりくらい。やる前は「動きをすっかり忘れているだろう」と思っていたが、ガチガチではなかった。
 普段、筋トレとマラソン(毎日ではないが)をやっていたお陰でもあるだろうが、感性の問題もあるのではと思った。自分の体の動きを、昔よりも把握できている気がするのだ。体をどう使っているかが分かれば、修正もしやすいし、どう動かせばいいかが分かりやすい。
 感性とは、与えられる情報をどのように捉え、処理するかという能力である。自分の体の動きも「与えられる情報」であるから「感性の鋭敏化は、スポーツをやる際に有効」というのは、案外、間違いではない気もする。

 木村拓哉主演ドラマ「華麗なる一族」の視聴率が松本潤主演ドラマ「花より男子2」のそれに負けたらしい。そして、このことでテレビ業界は騒然としたらしい。
 何故騒然としたのか? 理由は「木村が今まで一位であったということ」「松本が木村の後輩であるということ」が挙げられるようだ。
 首位は取るのも難しいが、維持するのも難しい。常に上を目指す余地は存在し、慢心の隙間は無い。そして、首位転落は周囲が騒然とする。
 これが競争の世界である。肝に銘じておかねばならないことだ。その前に首位を取らなければならないわけだが。
 なお、木村が慢心していたと言っているわけではない。


・創作
 本文を書けるくらいには、プロットが進んだ。
 今更気づいたが、トリックが「ゲームの国/森 博嗣」とほぼ同じである。作品としては全く別テイストであるから問題ないと思う。重要なのはトリックそのものではなく、そのトリックを使って何をやるか。だと思いたいところだ(占星術殺人事件/島田荘司」のような強烈なトリックなら話は変わってきそうだが)。


・読書
 現在「ライン/村上 龍」を読んでいる。初村上(龍の方)である。
 群像劇だろうか。このような作品は好みである。理由の一つとしては「収束点の不明さ」があるのではないだろうか。様々な人物が登場し、どんどん舞台が変わっていくため、何処に落ち着くのかが分からない(メインと思しき人物はあちこちに見えるが、常に見えているわけでもないし)。先の読めない展開というのは小説の魅力の一つであるが、そのような展開を構成する方法論として、群像劇のような構造が使えるのだろうか?
 各舞台で描かれていることの共通点としては「人物を責める何か」と「都会の喧噪」な気がした。「都会の喧噪」が浮かんだ理由は「都会という舞台での、性や暴力が描かれているから」である。
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・日記
 帰省完了。青春18切符につき八千円と安い旅であったが、八時間ほど消費した。time is moneyの解りやすい例であろう。
 電車内では、本を読むことと睡眠以外、していない。

 実家にて「鉄道員/浅田次郎」と「ライン/村上 龍」を発見。いつの間にか親が買っていたらしい。読むチャンスができたので、読もうと思う。

 現在、実家のPCが壊れている。修復予定は皆無。従って「解の無い方程式」の更新はしばらく停滞する予定である。


・読書
 車中にて「人工憑霊蠱猫01 蠱猫/化野 燐」と「夏と花火と私の死体/乙一」と「夏のあらし/小林 尽」を読了。

「人工憑霊蠱猫」
 どうやら続きを買えということらしい。そのような終わり方であった。しかし、あまり買う気は起きない。残念。全く面白くないわけではないが、俺は好みに合わなそう、ということ。
 俺としては二章開始からその途中までが最も面白かった。理由は恐らく、舞台が大学の研究室だからだ。非常に自分と近い。俺の持論として「読者が登場人物であると錯覚できるほど、小説は面白くなる」というものがある。従って、登場人物と境遇が近いほど、小説は面白くなると考えられる。これが「読者層をしぼる・狙う」という言葉の意味ではなかろうか。
 また、一章と同様、二章においても敵は明白であった。日常パートで嫌な性格と評される人物が該当している。このような「パターン」が同じだというのは先を読まれてしまう可能性が高いが、敵に関しては(意外な敵でない限り)、先を読まれてもいいのではないか? 嫌な性格のやつが敵というのも、勧善懲悪に近く、エンタテイメントとして俺は好みである。こちらが嫌な思いをせずにすむからだ。

「夏と花火と私の死体」
 驚異の十六才、乙一のデビュー作。氏の登場からもう十年以上か。発表当時、週刊少年ジャンプで広告を見た記憶がある。それからずっと気になっていた(読むのを忘れていたともいう)。
 やはりどうしても目がいってしまうのが、視点保持者である。小説の書き方本で確実に触れられることとして「視点保持者は一人にしぼれ」というものがある。これにはちゃんと理由があって(上記の俺の持論も含むだろうが)、視点があちこち移動すると読みにくくなるからだ(少なくとも俺はそう思っている)。例えば「六番目の小夜子/恩田 陸」では視点の移り変わりが激しく、読みにくかった(作品自体は面白かった)。
 本作は視点の移り変わりが激しい(=神の視点)くせに、読みにくさは回避されている。理由はやはり「わたし」という殺された女の子が語る故であろう。誰の心の中でも覗くことができる「わたし」がいるのである。これが基軸となるため、視点がふらふらしているように見えず、従って、読みやすい。
 このように色んな視点を持つことによるメリットもきちんと存在しているようだ。自分が思ったのは「サスペンスの効果を出す」ということ。迫る側と迫られる側の両方を書くことで、迫られる緊迫感が増加していると思う。
 画期的な小説というのは、ルールを鮮やかに破ってこそ生まれる。やはりそう思う。難しいことだ。

 同時収録作品は「優子」。乙一はよくこの手のミステリを扱っていると思う。読者に思わせない、というのは最大のミスリードではなかろうか。
 最後の一文がとても良かった。理由は俺の中で明白になっている。問題なし。多分。

「夏のあらし」
「School Rumble」の小林 尽が書いているということで、駅内のキオスクで購入した。漫画の分析は難しい。
 またもや俺の持論であるが「人物の書き分けを髪型だけじゃなく、目や口、鼻といったパーツできっちり行う漫画家は信頼できる」。小林 尽はこのあたりをきっちりやっているように思えるので、好きな漫画家である。School Rumbleでの漫画精神論・抽象論も納得できたし、画風もシーンに合わせて変えてくる。
・日記
 本日、帰省の予定である。荷物は本とノートくらいなので楽だ。
 しかしながら、帰省先から帰ってきたらすぐに引越しである。こちらは現時点で全く何も準備ができていない。せめて本くらいはまとめておきたいところだ。あと、オーディオ関連が多いので、この辺りも早めにどうにかするべきだろう。


・小説の執筆
 まだプロット段階。下書きは終わり。現在、清書に入っている。
 現時点での問題は、事件解決のためのヒント。トリックを見破るためのヒントである。伏線としては張っているが、どうもその伏線だけから解決にもっていくのは、強引な気がしている。決定打に欠けるといったところか。
 さて、どうするか……。
 探偵がトリックを見破らなくても話を収束させることは可能であるが、それよりは、見破る方が面白いはずだ。よってヒント作りは続行。

 しかし、相変わらずの筆の遅さ、集中力の無さである。本当に俺は作家失格だと思える。作家じゃないけど。


・思考
 考えたことはある。しかし、あっさり忘れているのも事実。メモを取ればいいものを、取っていない。
 何故メモを取らないのだろうか。
 至極シンプルな答えとして「面倒臭い」がある。自分はどちらかといえば筆不精なので、この理由はおよそ正しいと考えられる。また、メモを取りたいときに取れないという原因もあるだろう。自分は普段、移動するのに自転車を使う。できるだけこのときに何かを考えようとしているので、メモを取れないというわけである。
 前者はともかく、後者は具体的な解決策が一つ考えられる。
「メモを取れる状態になるまで、その一つの事柄を考え続けろ」
 こうすれば忘れることもないし、その考えをより深く突き詰めることができる。また、一つの事柄について思考を持続するというのは、つまり、集中力の養成にも繋がりそうである。一石三鳥。


・読書
「人工憑霊蠱猫01 蠱猫/化野 燐」を引き続き。現在150P。半分は過ぎた。
 なかなか面白くならない。「先を読もうと思わせる原動力」が不足している気がする。何故だろうか。
 話の内容をメモしていき、多少なりとも分析できないか試みたい。
 思考というシステムについて。前回の記事に続く事柄である(すこしだけ単語を変えた)。
 以下は、俺が昔書いた文章。現在も、この考えはあまり変わってないと思う。

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 何が言いたいかというと、「思考」というものにはその内容云々について分類可能であるってことだ。その分類とは「再生」「記憶」「読解」「演繹・帰結」「創造」だ。内容は次の通り。

・再生
 既知の情報を思い出す思考。昨日は何食ったっけ?とか。習慣とかもこれに分類する。
・記憶
 まんま。憶えること。
・読解
 外からの情報を処理し、理解する思考。本を読んだり、人の話聴いたりするときの思考。
・演繹・帰結
 外からの情報を基に、別の情報を構築する思考。会話のときとか、計算するときとか。
・創造
 既知の情報を基に、別の情報を構築する思考。小説書いたり、作曲したり。

 これらの思考には、個人差はあれど、「高低」が存在するはずだ。高低ってのは、文字通りの高低。位置エネルギー。高いほど不安定で低いほど安定。そして、不安定な思考ほど、他の思考に転びやすい。俗にこのことを「集中力が無い」と表現したりもする。
 高い位置にある思考ってのは、色々と厄介だ。まず、その思考状態に持っていきにくい。何故なら高いから。そして、簡単に思考が止まったり、他の分類の思考に移りやすい。何故なら高いから。このような‘高い’思考は、その思考を使いまくることで段々と低くなる。これが練習ってやつの目的であろう。‘高い’のを‘低く’できれば、それが当然の如くにできるようになるからだ。
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 この思考の分類の中で、メモが代替できるのは「再生」と「記憶」だ。俺が重要と考えているのは他の三つ「読解」「演繹・帰結」「創造」である。この三つについての訓練が、このblogの主目的になるといえよう。

・思考
 webサイト「解の無い方程式」で宣言した通り、別スペースにて思考を色々と書くことにした。当初はmixiでやろうかとも思ったが、blogをmixiの日記にはりつけることも可能であるので、こちらでやろうと思う。

 自分自身への確認事項であるが、このblogを書く目的は「思考すること」である。日々、きちんと何かを思考するための起動力(またはモチベーションと呼ばれるもの)の確保だ。発表の場があるほうが、やる気を出せる。あとは、長く続くことを祈るばかりだ(祈る対象は神ではなく、自分自身である)。
 ここで一つ疑問が浮かんだ。
 果たして、ここに書く事柄をメモ帳に記してストックしておくことは有用か否か?
「考えるリスト」を作成するのであれば、これは有用だが、一度考えた事柄をメモるのである。この行為に果たして意味はあるのだろうか。
 そもそも、重要なのは思考するという行為そのものにある。発表することにあるのではない。「思い出す」という行為も思考の一つと捉えるならば、メモらない方が思考することになるだろう。
 しかし、思い出すという思考に意味はあるのだろうか? 考えるべき点はここだ。
 シンプルに考えよう。思い出すのは、人間じゃなくてもできるから、大して意味はない。よって、メモを使えばよい。
 数学の公式で重要なのは覚えることではなく、どのように使うかということだ。


・創作文芸
 サークルの冊子のための作品を考案中。短編ミステリ。
 メイントリックを考えたので、そろそろプロット構築を始められると思う。というか、始めないと締め切りに間に合わない。


・ノベライズ
 マンガ「羊のうた/冬目 景」のノベライズを行っている。目的は文章練習と、感性の鍛錬。
 まだまだ序盤。本日はマンガ相当で四ページほど書いた。台詞が多かったので、あまり練習にはなっていないと思う。よろしくないか。
 この台詞であるが、今まではマンガの台詞は丸写しで、コマの絵を文章化する、というようにやっていた。これでいいのだろうか? 台詞も多少の改変が可能であると思う。その方がノベライズ作品としては良いものになる予感。
 ノベライズのポイントは、絵を見ながら文章を書いていくのではなく、頭の中で明確な絵を描いて、それを文章化していくという方法でやった方が良い気がする。


・読書(「人工憑霊蠱猫01 蠱猫」と「鏡の中は日曜日」について、広義のネタバレを含む)
 現在は「人工憑霊蠱猫01 蠱猫/化野 燐」を読んでいる。妖怪関連の小説で、作者が京極夏彦らと同じ「怪」チームのメンバだということで、以前から気になっていた作品。
 タイトルの読みは「じんこうひょうれいこねこ」。しかし俺は「じんこうつきれいこねこ」と読んだ方が好きだ。「じんこうつきれい」だと、音読みの中に一箇所だけ訓読みがあることになる。このアクセントが気に入っている理由かもしれない。
 読み始めて三日ほど経ったが、まだ第一章を読み終えた段階。90ページほど。遅いと思われる。
 この時点では、好みに合う作品ではないようだ。理由は簡単。妖怪を「生物」として扱っている点にある。俺は民俗学的な概念としての妖怪が好きなのだ。冒頭でかなり書物の名前がでてくるので、多少、民俗学の期待をしたのだが、現時点ではそのようなことに触れられていない。
 敵と味方の予感についてのミスリードが有効に働いていた。日常パートにて、敵になりそうな人物を強く予感させる。そして、実際に、敵にする。こうすることで、他の敵の存在を読者に悟らせないという手法になっているのではないだろうか。一旦正解を示してしまえば、他の点に思考がまわりにくくなるということだろう。「鏡の中は日曜日/殊能将之」でも同じ手法が成立している気がする。

 作中には「有鬼派」と「無鬼派」という、対立している二つの派閥がある。学術的な対立だ。少なくとも片方がカルト教団というか、ファンタジィなことをやっているので、学術っぽくないが。
 そこで思いついたのが「学術派閥対立小説」。ちゃんとした学術の論説についての争いを描いた小説を、俺は今まで読んだことがない。科学史の本では、何処かで扱われている気もするが。

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