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・日記
 引越し準備中。オーディオシステムをほぼ解体し(この表現は合っているのだろうか?)、スピーカなどを梱包した。現在はアンプとヘッドホンのみが使える状態にある。これが無いと音楽を聴けないからだ。今現在も音楽を聴きながらこの文章を読んでいる。
 テンプレートを拝借しよう。これが成立すると見なして話を進める。
「世の中には二種類の人間がいる。音楽を聴きながら集中できる人間と、集中できない人間だ」
 このように分類されるのは「集中」の状態に個人差があるからではないか、と思った。例えば前田の場合は、音楽を聴いていると集中できない。これは前田にとって「集中=或る一つの思考に対するノイズがない(または少ない)状態」であるからだ。ここでいうノイズとは、その思考とは関係のない情報を指す。
 音楽は思考に関係のない外部からの情報だ。従ってノイズであり、集中の妨げとなる。
 また、ノイズは外部からだけでなく、内部からのものもある。関係無いことについての思考が内部からのノイズだ。
 ノイズがあるために集中できないというのはつまり、ノイズのために他のこと=目的の思考ができないということだ。これは「同時に二つ以上のことを考えられない」ことに由来する。従って、ノイズの消去は単純で、目的の思考でノイズを追い払う(感覚的には塗り潰す)と良い。だから集中するのは疲れるのだ。
 この方法が正しいことは、「集中=目的の思考ばかりする」というトートロジィになっていることからいえると思う。
 さて、どうして二つ以上のことを同時に考えられない=パラレルな思考ができないのであろうか。理由の可能性として、言葉で思考しているから、というものが挙げられそうである。実際、言葉と映像を同時に思考することは、極めて短時間だが、できないことはない。

「音楽を聴きながら集中できない→パラレルな思考ができない」ならば「音楽を聴きながら集中できる→パラレルな思考ができる」なのだろうか? 論理学的には必ずしも成立していないが。


・引越し準備
 全然着たことがない(そもそも見た記憶さえない)衣服が沢山出てきた。内臓脂肪のようなものだろうか。生活空間にある物品くらいは把握しておくべきだろうという反省。


・toward
 現時点で、十七回目の再生。既に160分以上か。飽きる気配はまだない。
 ながらで聴く方が多いので、歌詞を憶えていない。


・文章練習「坂を登る」
 早く他の街に引越したい。理由はあまりに単純で、他の人にとってはどうでもいいことだろう。そのくらいの自覚はある。
 この街は坂が多い。
 車も原付も持っておらず、移動は専ら自転車だから、下りは楽だけど上りが大変になる。苦あれば楽ありというが、僕にとっては楽あれば苦ありといった方がしっくりとくる。楽じゃなくて、苦が強調されているのだ。それならば、最初から楽がない方がいい。
 その苦が段々近づいていきた。次の交差点を左に曲がれば坂が始まる。今走っている道のようにずっと平坦ならどれだけいいか。せめて坂の下に引越せば良かった。
 ギヤを一番軽いのに切り替えて、ハンドルを左に切った。カーブもない、長い長い坂の入り口。
 後はもう、ひたすらペダルをこぐだけだ。サドルはしばらくいらない。ペダルの上に立ち、両腕と胸に力を込めて上半身をハンドルに近づける。その反面、脚を使ってペダルを踏み込み、体を自転車から遠ざける。
 覆われたような痛みを手首に感じて、何とかペダルが回ってくれる。呼吸だって難しくなったように思える。
 なかなか進まないから、バランスも悪くなってしまう。フラフラとハンドルが左右に振れて、自分の体重が頼りない。
 坂なら坂で、ずっと上りならいいのに、あちこちにでこぼこがある。センチ単位で下り坂があっても、全然嬉しくない。ハンドルがふらついて上手く操作できないから、避けようもなくでこぼこにぶつかってしまう。
 坂の半分あたりまで来ると、呼吸をしていることを思い出さざるを得なくなる。今まで無酸素運動だったのにと思うと、自分の体力の無さがうらめしい。大きな息が吐き出されて、喉が痛い。こんなところにも楽あれば苦あり。ずっと無酸素で自転車をこげたらいいのに。


・読書
「人間は考えるFになる/森 博嗣|土屋賢二」を購入。「13階段/高野和明」は小休止して「人間は~」を読んでいる。前田はもしや無趣味ではないのか?という疑惑が持ち上がった。
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・コメント返信
>kisaさん
 お勧め有難うございました。感想の述べ合い、楽しみにしております。


・思考
 昨日書いた「観客というリアリティ」について。手記形式や日記形式もこれに近いということに気づいた。一人称のものも、遠くはないと思う。
 作中人物が読者を意識しているかどうかを考えると、「観客というリアリティ」の高低は手記>日記>一人称の順になっている気もする。
 二人称はどうなのだろう? あれは「読者を作中にいると錯覚させるリアリティ」を目指すもののように思える。それだけに、よほど巧くやらないと大失敗するのではないだろうか。自分の知る範囲では「疾走/重松 清」ぐらいしか該当作品がない。気になる。


・日記
 本日よりwebサイトの更新再開。マンガ家、施川ユウキが神に思えてくる時期である。

 ACIDMANのアルバム「green chord」を聴いた。一番気に入ったのはよりにもよって「toward」。十分を超える長い曲なので友人連中とカラオケに行くときには歌えない。それ以前に前田は音痴なので、この曲は難しい。「and world」といい「廻る、巡る、その核へ」といい、ACIDMANの長い曲は困る。
 ACIDMANも、デビュー当時と今では相当変わったと言われるバンドの一つであろう。このことについては賛否両論あるだろうが、前田は今のACIDMANも好きである。
 勿論、変わったと思う。では何が最も変わったと思うのかというと、歌詞だ(曲調は変わったというよりも、幅が広がったと形容したい。確かに「造花が笑う」や「シンプルストーリー」「FREAK OUT」のような曲は少なくなっていると思うが)。
 昔の歌詞は、面白い文章がよく使われていた。良く言えば独特、悪く言えば意味不明である。サールナートなんて単語、大抵の人は知らないと思うし(広辞苑にも載ってなかった)、鉄の冷める音を聴いたことがある人はそうそういないだろう。昔の歌詞は抽象的なイメージしかできないものが多かった気がするのだ。
 これが、歌の「what」の面白さである。歌詞=whatという捉え方。対して曲調や歌い方なんかがhow。前田は今のACIDMANのhowも好きだが、whatは昔の方が断然好きだ。

 このwhatとhowであるが、何も歌だけに限らず、色んなものに適用できる概念だと前田は考えている。小説の文章ならば、描写の対象がwhatで、文体や形容詞がhowに当たるのではないだろうか。比喩はどうなのだろう……。前田はwhatに分類されると思う。
 面白い描写、面白い文章を書くには、このwhatを追求する必要があるはずだ。故に、文章を書くためには観察眼が要求される。


・ピコーン!
 舞城王太郎は関係がない。ただ閃きを表現したかっただけである。
 日記と思考を分けなくてもいいんじゃないかと思い始めてきた。


・文章練習「坂道下り」
 油が切れているのかタイヤの空気が抜けているのか分からないが、自転車のペダルが重いことは確かだった。サドルは硬い。心なしか車体も歪んでいる。乗り心地が悪い。
 マイナスだらけだが、坂の下りだと帳消しになる。トンネルを抜けるまでの辛抱だ。
 足に力を込めて、オレンジの光から出る。左折すれば、後はもう、落ちるように車輪が回ってくれた。
 ペダルの上に立てば尻も平気だ。夜の寒さくらいは我慢しよう。時期は春と冬の境にある。耳たぶの冷たさも、厳しくはない。
 道路の脇の木が視界の片隅で遠ざかる。並ぶ街頭の白が頭上を飛んでいく。
 揺れるハンドルだけが道路の変化を教えてくれる。スピードの中では見えるはずのない、アスファルトの表面。
 首の裏、撫でられるような感触。後ろ髪を梳くのは静止した風。動いているのは自分。
 加速を続ける車輪に少しだけ摩擦をかけながら、道の先端へ急速に向かっていく。
 何の匂いもしないのは、きっと、何も聞こえていないのと同じことだ。


・読書
「13階段/高野和明」を読み始める。まだ読み始めただけ。法律関係のことをガンガンやられるのでは?という危惧はある。法律は苦手。
 あ!「ニューロマンサー/William Gibson」が途中だった!
・日記
 電車に乗って十時間の移動はやはりダルい。車中では睡眠と読書しかしておらぬ。

 ダ・ヴィンチ編集部による小説の書き方本が本屋を巡っても売られていない。注文しろということか? しかしとりあえず立ち読みで内容を確認したい。注文はためらう。


・文章練習「車窓」
 どうせ電車の中じゃやることもない。窓枠に肘をついて、頬杖しながら外を眺めている。電車はあんまり揺れていなかったから、頬を押す手の甲は不快じゃない。
 現れる端から消えていく近景。いつまでもある遠景。同時に追うと鋭くも鈍くもない痛みが眼の裏側に溜まる。電車が速ければなおさらだ。
 だからいつも、呆っと遠くを見ることにしている。そうすれば線路に近い家や、道路を走る車や、あちこちに立つ電柱はすぐに消えていってくれる。声みたいなものだ。いくら叫んでも、一瞬たりとも残ってはくれない、声。
 遠くの山の形はなかなか変わらない。雲の形は……どうだろう? 風があるからか、山よりも変わっていっている気がする。けれど光でできた陰影は止まっている気がする。白い雲。ちょっとだけ陰った雲。山に落ちた雲の陰。
 青い空との境界が一番白い。晴れた日の雲だっていろいろあるんだと気づかされる。
 最初に変わったのは、やっぱり近景だった。視界の中に縦線が入っては消え、入っては消えとしていることで、ああ、橋の上なんだな、と分かった。
 下を見れば川だった。
 止まって観れば、きっと水面が太陽の光をきらきらと流していただろう。そんなときにだけ、私は水が柔らかいことに感謝する。
 けど私は今、動いている。ほとんど真下にある水は一瞬しか視界に入らない。その瞬間の光の煌きしか見ることができない。写真みたいに眼に焼きついた波はまるで、粘土みたいだった。
 私は今、時速何キロで走っている?


・読書
「大東京三十五区 冥都七事件/物集高音」を読了。作者の名前が難読。もづめたかね。
 想像していたのとまるで、それこそ反対というくらいに、雰囲気が違っていた。読み始めは「読みにくそう」「好みの雰囲気ではなさそう」と感じたが、いざ読み進めると面白い。解説でも触れられていることだが、文体のためだ。
 今まで自分は、小説の理想形とは「読者が登場人物と同じ目線に立ち、作中人物であるように錯覚できるもの」であると考えていた。今作はこの考えを覆してくれた。冥都七事件は、この理想形を絶対に実現しないが、読者を小説の世界に引き込むリアリティがある。
 そのリアリティというのが「物語を読んでいる(或いは聴いている)」というもの。読者を最初から物語の場から遠ざけて、語り手の話を聞かせるような文体。講談を聞いたことはないが、恐らく、そのような感覚だろう。
 この文体のポイントとしては「擬音語・擬態語の使い方」「視点保持者の心理を長々と書かない」「言葉のリズム」といったところか? 真似るのは非常に難しいだろう。
・日記
 原子力発電所にて臨界事故が発生していたのを隠していたというニュースがあった。この事件に対する文句などは特にないが、気になったことが一つ。
 臨界事故の原因は、制御棒が下がってしまい反応量が大きくなってしまったため、らしい。どうして制御棒が下がると反応量が大きくなるような設計をしているのだろう? 安全を考えたら、下げたときに制御棒の効果を発揮するようにすればいいのに。そうしないと、何らかの外的要因で制御棒が落ちてしまったとき危険ではないか。

 一日を振り返って、特に何もしていないと感じるのは非常に気分が悪い。この感情を保存することができれば、この問題は解決するのだろう。
 感情の制御というのはなかなか難しい問題である。成長するに従って、大抵の人は感情を「抑える」ことは可能になると思う。多くの人と関わりを持つようになるからだ。日本は和の国なので、感情の抑制は周囲からも要求されることだろう。
 反対に、少なくとも前田は、感情を「昂らせる」ことができない。感情の「制御」というくらいだから、マイナス方向だけでなくプラス方向にも持っていけなければならないだろう(感情の振幅の問題である。ネガティブ、ポジティブの話ではない)。
 感情の制御について分類してみると、
1.ポジティブな感情を抑える
2.ネガティブな感情を抑える
3.ポジティブな感情を昂らせる
4.ネガティブな感情を昂らせる
 こんなところだろうか。前田は2しかできないと思う。社会に出れば、こういったことができるようになっていくのだろうか? controlable emotion?


・バドミントン
 集中の意味を知っている。
 ラケットを握り直すこともない。確かめるのは足にかかった体重くらいだ。左足に力が入っている。右に感じるのは、床との小さな接点。
 自由に自分を動かせることが解ればいい。
 息を吐く。
 シャトルを手から離す。
 意識して全身を動かすのはサーブのときだけだ。落ちるシャトルをラケットで振り抜き、上半身はそれだけ。コート中央に重心を持っていき、平等に体重を支えて、両足はそれだけ。
 シューズがコートを擦る音は聞こえている。体育館に反響した打球音も聞こえていた。ただ、聞こえただけだ。
 相手が振りかぶる。スローに見えることはありえない。
 ほんの一瞬先を予測する。千分の一秒か、万分の一秒か。
 右だ。
 瞬間の思考と両足の緊張。体を半身だけ捻り、ラケットを後ろに回している。
 右足が重くなる。左足が軽くなる。
 両足の錘は一瞬で逆転して、全身が風を感じ、腕を縦に振り抜いて、打球音が響く。
 集中すればするほど、感覚が狭まるなんてことはない。全部見えている。全部聞こえている。全部感じている。
 ただ、関係がないだけだ。シャトルを打つ音も、足がコートを叩く音も、クロス側のラインも、ポールの位置も、額を伝う汗も、呼吸する喉も。すべて、捨てられる情報。
 シャトルの軌道。相手のフォーム。両足の感覚。これだけが、全身を支配する。たったこれだけで、全身が動く。動いている。
 相手がシャトルに追いつく。打つ。
 軌道を予測し、回り込み、全身を捻り、打つ。
 すべての動きには、筋肉の緊張ばかりが残る。
 
 アクションシーンを書いたのは初めてな気がしないでもない。
・日記
 確かに風呂のカバー(?)を閉じた裏側からの景色は、大人になってから見なくなったな。


・思考
 小説を書くのにも理論が存在する。起承転結がその最たる例であろう。小説の書き方本というのは、要は、理論の一つを学ぶための本だ。
 では、その理論を必ず学ばないとならないのか? 答えはノーであろう。まず、自分の楽しみのためだけに小説を書く場合は、人の目を気にする必要はないわけだし、理論は必要ない。
 では、人に読んでもらうために、より多くの読者に面白いと言ってもらうために書く場合、理論は必須なのだろうか。これも答えはノーになる。必ず、ではない。理論がなくても、主観ならば、面白い小説かどうかは解るからだ。面白いか否かで感性を働かせながら小説を考えれば、恐らく、理論がなくても自分にとって面白い小説はできあがるはずである。自分が書いたという贔屓目があるから、頭を冷やすという作業は必須だが。
 さて、このようにして小説を書くことができるならば、どうして理論が書き方本で示されているのか、つまり、何故小説家の卵は理論を必要とするのか? 答えは客観性ではなかろうか。
 自分の感性のみで「面白さ」を追求した場合、その面白さは作者一人にしか通用しない可能性がある。これでは「人に読んでもらう」という目的を達成することはできない。そこで理論という、先人たちの意見が導入される。理論というのはつまり、自分以外の人間の感性であり、批評眼であるといえるだろう。
 理論=他人の感性が成立するならば、理論に頼り切るなということも言える。頼り切る場合、革新には至らない。


・書店から出たところ
 自動ドアの開く音だけが聞こえると、屋外の空気がためらいがちに流れてきた。冷たいというほどではない。ただ、屋内よりも温度が低いと思っただけだ。もともと寒さには強い。
 三歩進めば背後にも冬の空気。呼吸をすると肺が洗われた気分になった。
 店に入ったときとはうって変わり、灰色ばかりが目につく。正面の駐車場のアスファルト。店の左を通る道路の色。空。音の少なさは同じくらいだった。
 どうして入り口は地面よりも少し高い位置にあるのだろうかと、今更ながら疑問に思った。地味な橙色の段差にして僅か二つ。この高さで、一体何が得られるのだろう。
 一歩だけで下に降り、停めてあった自転車のカゴに今買ったばかりの封筒と本を入れて、スタンドを上げてからサドルにまたがった。今は排気ガスの匂いさえない道路に沿って、家へと向かう。
 古い自転車だからか、単にタイヤの空気が抜けているだけか、こぎにくい。スポンジの上を走っているような気分になってくる。
 まあ、雪よりはマシか……。
 タイヤキを買おうかどうか迷うことさえなく、屋台の横を通り過ぎた。

 以上、薬丸岳みたいな文章練習。これからちょくちょくやっていきたいと思っている。


・出版
「化物語/西尾維新」の下巻がこの時期に出るとはどういうことだ? 西尾維新はそれほどまでに速筆なのか。或いは講談社が出し渋ったのか。
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