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・ただ今
 洗濯中。


・名前
 最近web上でよく見かけるのだが、前田と同世代(現在、20ちょい)あたりの人間にとって変に思えるような名前が最近の子供につけられているらしい。当然というべきか、多数の人間はその変な名前について「親はバカだ」という感想を持っているようだ。
 日本人の名前というのには流行というものがあり、これは時代と共に変遷する。一昔前ならば、例えば、女性の名前に平仮名二文字が多いとか、そういうの。
 上記の名前も、そういう流行の一種だと捉えるとどうだろう?
 我々上の世代から見ると、彼らの名前はとても異常だ。けれど、彼らの年代だと普通かもしれず、このような命名がマジョリティになっていくならば、我々の感覚の方が異常に見られる。
 我々の名前も、上の世代の人間から見たら首を傾げられるものかもしれない可能性だってある。

 この手の「肯定」意見を前田は見かけたことがない。何故だろう?


・読書
「雷の季節の終わりに/恒川光太郎」読了。デビュー作「夜市」がそのまま直木賞候補になったバケモノの第二作。本作は山周賞候補。前田はデビュー作未読である。
 感想だが、ネガティブなものしか浮かばない。印象としては「キャラクタ小説でないラノベファンタジィ」。なんでこれが山周賞候補?と思ってしまった。
 主にマイナスポイントとなった要素を列挙すると、

1.主人公の危機をほのめかしながら、危機に晒されない。……期待の裏切り
2.悪として描かれていた敵が主人公に倒される段階で、既に、悪の要素が相当に薄まっている。……敵への憐憫によるカタルシスの減衰
3.大きく紙面を割きながら回収されていない伏線。……続編があるのか?
4.雷が関係ない。……タイトルの意味なし
5.舞台の描写が甘い。……異世界舞台なのに、異世界に感じない

 山周賞での品評を読みたいところ。

 現在は「羅生門・鼻・芋粥/芥川龍之介」を読んでいる。角川文庫のやつ。
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・コメント返信
>kisaさん
 そんな! あの作品の肝はラストのどんでん返しだと思うのに!


・MAJOR
 オールスター初のランニングホームラン。そしてMVP受賞。恐るべし。
 外国でこれほどまで認められた日本人て、なかなかいないだろうね。イチロー、室伏広治、湯川秀樹、村上春樹、川端康成、とか。


・実験
 夜九時前に帰れるという状況が「早い」と形容されるくらいに実験の手伝いをしている。大学の研究室っぽいなぁ、とか思う。


・読書
「プレーンソング/保坂和志」読了。
 ストーリィがないとは聞いていたが、ほんとにない。普通の日々をぶらぶらと過ごしているだけ。なのに面白い。読めてしまう。退屈しない。

 出力が面倒なので、今日はこれだけ。
・初体験
 大学に泊まってセミナの準備をした。
 結果、準備が間に合わず、セミナは延期に。無念。


・実験室
 PCが大量にあると熱をガンガン出すのでクーラをガンガン利かせる必要があり、部屋はガンガン冷えて、頭がガンガンする。そんな実験室。


・読書
「葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午」読了。
 最初の一文とタイトルの素晴らしさは読了して初めて解る。いずれも、読了前から「良い」とは思えるほどのものだが、真の価値はまだ隠されているのだ。
 メインの面白さはトリックとミスリードか。タイトル通り、恋愛要素も入っているので、こちらも。
 文庫版の巻末には補遺があるが、絶対にこちらを先に読んではならない。

 もう一つ「フィッシュストーリー/伊坂幸太郎」読了。短編集。
 頭ぐらぐらで読んだからか、なんともいえず。ただ、表題作は同作者の「ラッシュライフ」と比べるとやはり見劣りしてしまう。
・コメント返信
>しも
 おお。それはナイスだ。「スカイ・クロラ」シリーズは御主が以前言っていた「描かれていないところに世界が広がっている」感じがしまくりだぞ。むしろ、そっちの世界の方が圧倒的に広い。
 福井晴敏か。俺も氏の作品を読みたいのだが、文章が肌に合わないらしく、読みかけで止まってる。


・大衆
 政治のポスタが街中に貼られていたりする。
 このポスタに色々と文章を書くのは無理な話ではあるのだろう。道ばたに具体的な政治思想を書いたところで意味がない。かといって、現状のようなものでは、全く意味がないようにも思える。「創り上げたい日本がある」などと言われても全く説明になっていない。「美しい日本」という文句も同様だ。美しいって、何だ? この言葉に政治的思想・構想は一切含まれていない。この手のポスタ、演説の類に影響され票を投じるのは、思考していないと言わざるを得ないだろう。
 多数決、選挙というのは、大きな母集団でのマジョリティが表に現れる場だ。そして、上記のようなポスタを貼る側は「思考が停止しているならば票を投じる」ようなものを用意した。
 以上のことより「大衆」が定義できるとするならば、次のようになるのではないだろうか? 即ち「思考していない人」。
 この定義を是とすると、大衆娯楽小説と純文学の違いの一つが分かってくるかもしれない。前者は考えなしに楽しめるもの。後者は考えることで楽しめるもの。


・購入録
「99%の誘拐/岡嶋二人」と「プレーンソング/保坂和志」を購入。どちらも初めて読む作家である。


・読書
「葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午」を読んでいる。初っ端から下品だった。
 四分の一ほど読んだが、現在のところ、空間的時間的にあっちこっちと飛び回り、どのように収束するかが全く見えない。ただし、メインとなっているだろう事件はちゃんとはっきりと見えている。移動の軌跡は分からないが着地点は分かる、という印象。
・購入録
「葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午」購入。
 確認してみたら、初版から一ヶ月で四版になっていた。早すぎる。流石。


・回顧
 以前読んだ「ベルカ、吠えないのか?/古川日出男」が読みたくなった。図書館で借りてくるかなぁ……。


・読書
「クレィドゥ・ザ・スカイ/森 博嗣」読了。
 面白いけどストーリィが分からん。そこらへんを理解せずに読めてしまうのは流石だけれど。
 当たり前だけど、この作品の世界は広い。文章上で大きくとりあげられていること以外に、沢山の要素がある。普通の手段(または作家)ならば、その、とりあげられていない世界で物語が作られるはずだ。そのような「見えにくい部分」を含めて作品全体を分析・考察していくと、なかなか面白い結果が得られそうだ。
 このシリーズは主人公の思考がメインになっており、そしてそのために、閉鎖的な印象がある。ただ読んでいるだけでは、全体を把握できない気がする。そしてそれがストーリィの理解の妨げになっているのだと思う。だからこそ、世界全体についての考察、そうでなくても、描かれていることを分析しつつ読むというのは、非常に良い手段であるのではないだろうか。

 本作でスカイ・クロラシリーズの長編は終了。時系列(シリーズの正しい順序)としては最初に出版された「スカイ・クロラ」が最後になるらしい。改めて正しい順番で(ナ・バ・テアから順番に)読みたい小説だ。文庫版「スカイ・クロラ」の帯に「森博嗣史上最高作品」とあったが、前田はその文句に賛同する。いつか、全作ハードカバーで揃えたい。装丁も、本当に綺麗なのだ。

「僕はまだ子供で、ときどき、右手が人を殺す。その代わり、誰かの右手が、僕を殺してくれるだろう。」
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