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・購入録
「ALONE TOGETHER/本多孝好」購入。
 んで、これだけにするつもりだったのだが、「コミック怪」のvol.1を発見してしまう。表紙が「魍魎の匣」。マンガ。畜生。買うしかなかった。1029円という予想外の出費。

 まあ、本当に畜生と思ったのは読んだ後だったが。ギギギ。
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・初音ミク
 Desk Top Musicのカラオケが誕生か。まあ、ツールとしてのこのソフトに対する言及はいいや。何度かこのblogで言っていることの繰り返しにしかならないし。
 それより気になるのはこのソフトのメカニズム。どうやって自然な音声にしているのだろう? 五十音(+α?)のサンプリングだけして、あとは信号処理で抑揚とか高低とかをつけるんだろうか?


・絶望しそう!
「さよなら絶望先生/久米田康治」のキャラの眼が怖い。昔の方が良かったのだが、長期連載のマンガの絵が変わるのは宿命であるし、しょうがない。
 眼が怖いのは何らかの伏線である、という予想は流石にムチャだろうと自分で思う。


・出版
「妖怪の理 妖怪の檻/京極夏彦」が欲しいのは欲しいのだが、それよりも「交渉人 遠野麻衣子・最後の事件/五十嵐貴久」が気になる。前作「交渉人」はミステリとしてかなり面白かったし、何より犯罪交渉人の物語は前田が読みたいし、書きたいジャンルである。


・音楽
 一音一音、細かいところにまで耳を澄ますという聴き方が面白いような気がしている。観賞というより観察? それとも、そういう聴き方が一般的なのだろうか? 不明。


・読書(バレ含む)
「School Rumble 18/小林 尽」を先週購入して読んだ。この作品、シリーズで700万部いってるんだな。恐るべし。
 相変わらず、感情表現とか感情のエピソードとかが上手いなと、そんなことを思う。今回は特に二つ。沢近-播磨間の感情のやりとりと、周防→花井の感情の表現。
 まずは前者。ツンデレというキャラクタが典型的にどんなエピソードを持っているのかは知らないが、沢近がフラれてから病院のやりとりまで、前田には斬新に思えた。沢近の恋愛感情を保存しながら、本来のキャラクタ性である「勝気」も損なわず、更に成長さえ描く。正直、凄いと思う。
 話が逸れるが沢近繋がりということで。♯218の終わりが好きだ。この、物凄く普通な感じ。fin!という感じでは全くなく(そりゃSchool Rumbleは完結していないが)、すぐに流れそうな会話の一端という感じ。この段落は「感じ」という言葉を使いすぎだ。
 次に後者。周防→花井の感情。「気づき」。
 短いセンテンスではなく、長いページを割いて感情を表現するというのは、思いのほか難しいのではないだろうか? 特に「感じ取ったものを明文化する」という練習をしていると、一つの言葉や短い文章に押しこめようとするクセがついてしまい、余計に難しくなるかもしれない。保証なく、そんな気がしたというだけだが。
 あと、結城の伏目がちな表情も「気づき」に由来しているか。

 笑った表現としては、カレーを食った播磨。あれはどう見ても食事の演出じゃねえ。一体、どの次元に迷い込んだんだ?
・マスコミ
リンク>「テレビが作る“民意”って何?大衆が誘導される今の時代」「報道の偏り…、胸くそが悪い」星野仙一氏が語る
 前田は政治については大衆なので、星野氏の主張は置いておく。
 思ったのが、付いているレス。批判的なものに、星野氏に対する批判が幾つも混じっている。主に、ダブルスタンダードとか何とか。しかしこの批評は意味がないというか、的が外れている。氏が過去に何を言っていようが、今回語った内容とは、何の関係もない。注目されているのは、今回提示された考えだからだ。
 批評・批判・意見の類は、「星野氏」にではなく「星野氏の記事」に対して述べるべきだと思う。そうでなければ、世の人間は反省が許されないことになってしまう。


・キャラクタ化
 んで、上記の項目繋がり。
 発言の内容に対して、発言者の過去にまで批評が及ぶという問題。ここに前田は「人物をキャラクタ化しようとする」動きが見えると感じた。
 キャラクタ化とはどういうことか?
 これは「価値を持った側面の肥大」を指す。つまりこういうこと。ある分野に於ける功績を持った人物に注目する際、注目する価値はその分野(側面)だけに限られているにも関わらず、他の分野(側面)に注目することである。上の星野氏の例でいえば「注目する価値のある側面=blogの記事」で「注目する価値のない側面=過去の発言」である。まあ、それ以前に、星野氏はキャラクタ化されているが。
 この「キャラクタ化」という現象は芸能人、スポーツ選手などの有名人全般に起きている。以前ここでも紹介したフィギュアスケート選手の飲酒運転もその類である。どうしてそんな部分に注目する必要があるのか? これが前田の持つマスコミに対する疑念の一つである。
 まあ、一概にキャラクタ化が悪いとは言えない部分もある。「よく考える人」の意見というのは、専門以外の分野でも鋭いものがあったりするからだ。だがあくまで「あったりする」という、可能性である。
 逆に最もダメなのは、専門分野に対して大したことのない意見しか言えない人間である。
・今まさに
「もののけ姫」を観ている。
 自然と人間の戦いを描いている(一見して、そう観察される)もののけ姫でも、やはり動物は植物より上になっている。「シシ神‘の’森」と言っているし(シシ神が動物だとしてだが)。
 動物<植物、または動物=植物の力関係になっている作品て、何があるだろう? 自然現象>動物なら、割とありそうな気もするけど。
 あ、あと、鉄って、人間の象徴みたいに扱われるが多い気もする。人間というか、人工物か。鉄も自然なのに。
 およそ二時間経過。上記のことに反するように「もうお終いだ。森が死んだ」とも言ってるな。アレ?


・読書
「太陽の塔/森見登美彦」読了。ああ……、読むつもりじゃなかったのに。
 しかし何と頭が悪い作品だ(褒め言葉である)。傍から見て、圧倒的におかしなことを言っている(やっている)が、本人は気づいていない。むしろ肯定しているという滑稽さ。この辺りの面白さは「夜は短し~」の「私」の部分と同種だろうか。
 ただ、珍妙な世界観の見せ場が比較的少ない。この点で、前田は「夜は短し~」の方が好きだ。最大の珍妙物体である太陽の塔は、岡本太郎の作品であることだし(その形容は、無論、森見登美彦によるものだが)。
・ちょっとした注意
 前回と今回のリアリティ云々の記事で用いている「リアル」「リアリティ」といった言葉は、一般に使われているものと用法が違うのである。


・続き
 サークルの先輩と少々話をしたので、前回の時点から前田の考えが多少変わっているかもしれない。その話からも時間が経っているので、やはり変わっているかもしれない。

 リアリティを、この場では、次のように定義する。ただし厳密なものではなく(前田はまだ厳密な定義ができない)、幾らか揺らぐ。
「リアリティ=読者が作品世界をどのようなものとして受け取るか」
 例えば手記形式。これは「作品が誰かによって残された手記である」というリアリティを持たなければならない。前田は手記形式を殆ど読んだことがないが、この系統の作品のキモは「書かれていることは、全て、本当に誰かが体験したことである」ということ(=リアリティ)から来る恐怖感なのではないかと思う。これは小説というメディアと相性がいい。読者は「読む」ことで内容を理解するからだ。

 このリアリティとリアルの関係について、少々言及しておこう。前田は、リアリティを出すためにリアルが必要になる、と考える。社会派ミステリには「本当に何処かで起きていそうな事件」というリアリティが要求される。従って、そのようなリアリティを出すならば、高いリアルが必要となるのは明らかだろう。警察機構がリアルじゃないのに「何処かで起きていそう!」と思う人は、多分、いない。ファンタジィでも同様のことがいえる。「そのような幻想世界が存在する」というリアリティを出すならば、現実の人間の社会に関するリアルが絶対に必要になる。

 さて、作者が考えなければならないリアリティについての問題とは何か? 前田は次の二つを挙げる。
1.如何にしてリアリティを出すか
2.どのようなリアリティを選択するか
 前田は後者が特に重要であると、現在考えている。
 個人的な話になってしまうが、以前の前田は、究極の小説を次のように考えていた。
「読者が、自分は作品内に存在していると錯覚するような小説」
 つまり、作品内の世界は本当にあって、読者はその世界を体験しているというリアリティである。前田は、これは正しいと、今でも思っている。そのような小説は、まず間違いなく面白いはずだ。
 しかしそのような小説を書くことはできない。技術の問題ではなく、原理的に不可能だ。当たり前である。読者は小説内の世界にいない。殺人を目撃したり、素敵な恋人と巡り逢ったり、金銀財宝を探しているわけではない。「作品にのめり込む」という言葉はあるが、それは読書に集中しているだけである。「読者が、自分は作品内に存在していると錯覚するような」リアリティは、突き詰めようとしても、原理的な限界が存在するはずだ。
 ではどうするか?
 上記の問題を「如何にリアリティを出すか」ではなく「最高のリアリティを発揮できるのは、どのようなリアリティの場合か」と解釈し直す。これは「速く移動するには、何を使えばいいか」という問題に似ている。100mを9.74秒以内に移動するには、自動車を使えばいい。小説が作り物でしかなく、読者を錯覚させることができないなら、作り物としてのリアリティを求めればいい。
 これが、古川日出男のフィクション宣言の本質である(尤も、前田が勝手にそう感じただけだが)。
 そして「小説は作り物であるというリアリティ」以外にも、突き詰めることのできるリアリティがあるはずである。前田はそれがどのようなリアリティなのか、分からない。分からないが、それを探索することは、新しい小説の開拓に繋がることだと思っている。


・読書
 執筆中は読書量を減らすべきだという判断から、最近は小説を読んでいない。だって読むと影響されるしさー。場合によっちゃ凹んで、モチベーション減衰するしさー。
 ああ、しかし「ハル、ハル、ハル/古川日出男」読みたい。
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