・小品
前回からの続きの出力を保留し、代わりに小ネタ。
駅を出ると「わたしの不幸を買っていただけませんか?」と声をかけられた。日も落ちた時間帯のことで、けれど派手な電飾や人のざわめき、交通機関の騒音が夜とは思えない環境だったから、私はてっきり、女が売ろうとしているのは春なのではないかと思ったが、「一つ千円です」と言われ、考えを改めた。
「不幸って?」
女は右手に乗せた小さな包みを私に見せた。キャンディほどの大きさだった。これがどうやら女の不幸らしい。
「これ買うと、不幸になるの?」
「いえ、多分、ならないと思います」
曖昧な表現だ。もっと詳しく話してくれと要求すると、女は緊張したようで、眼が私を外れ、左手を少し体に寄せた。握りたいのか指を開きたいのか、その仕草が女の躊躇いに見えた。
「その、わたしの不幸を買った後にあなたが不幸になっても、わたしの不幸とは関係が、ないです」
それでは不幸を買ったことにならないではないか。女の論理は支離滅裂で、悪くなかった。私は財布から千円札を出し、女に渡した。
女は「ありがとうございます」と言い、私が不幸の包みを貰うと、雑踏の中に早々と消えていった。
駅から自宅までの道すがら、包みの中に何が入っているか気になり、開けてみた。琥珀色のそれは鼈甲飴としか思えず、試しに少し舐めてみると甘かった。
次の日も駅前に女がいた。私のようなサラリーマンと話していて、やはり不幸を売ろうとしているようだった。やがてサラリーマンは遮るように手をかざして、女から離れていった。世の中、不幸を買うような人間ばかりではない。
前回からの続きの出力を保留し、代わりに小ネタ。
駅を出ると「わたしの不幸を買っていただけませんか?」と声をかけられた。日も落ちた時間帯のことで、けれど派手な電飾や人のざわめき、交通機関の騒音が夜とは思えない環境だったから、私はてっきり、女が売ろうとしているのは春なのではないかと思ったが、「一つ千円です」と言われ、考えを改めた。
「不幸って?」
女は右手に乗せた小さな包みを私に見せた。キャンディほどの大きさだった。これがどうやら女の不幸らしい。
「これ買うと、不幸になるの?」
「いえ、多分、ならないと思います」
曖昧な表現だ。もっと詳しく話してくれと要求すると、女は緊張したようで、眼が私を外れ、左手を少し体に寄せた。握りたいのか指を開きたいのか、その仕草が女の躊躇いに見えた。
「その、わたしの不幸を買った後にあなたが不幸になっても、わたしの不幸とは関係が、ないです」
それでは不幸を買ったことにならないではないか。女の論理は支離滅裂で、悪くなかった。私は財布から千円札を出し、女に渡した。
女は「ありがとうございます」と言い、私が不幸の包みを貰うと、雑踏の中に早々と消えていった。
駅から自宅までの道すがら、包みの中に何が入っているか気になり、開けてみた。琥珀色のそれは鼈甲飴としか思えず、試しに少し舐めてみると甘かった。
次の日も駅前に女がいた。私のようなサラリーマンと話していて、やはり不幸を売ろうとしているようだった。やがてサラリーマンは遮るように手をかざして、女から離れていった。世の中、不幸を買うような人間ばかりではない。
・マゼッパ
超絶技巧練習曲の四番である。今聞いているが、やはりLisztは恐ろしいな。
・混ぜてみた
「こんなとき、どういう顔をすればいいか分からないもの……」
「それは君の自由だ」
・男汁
やばい。森見登美彦のblogが面白すぎる。
リンク>この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ
纏めて読んだ結果、思考に影響を受けてしまい、小説の執筆が停滞した。恐ろしい。
・フィクション宣言
「FICTION ZERO/NARRATIVE ZERO」という文芸誌が発行されていた。古川日出男が執筆人のリーダっぽく扱われていたので気になり、少し読んでみた。
巻頭にあったのが、古川日出男による「フィクション宣言」だった。その内容は、「小説だとか文学だとか、ライトだとかヘビィだとか、そんなくくりはどうだっていい。全部フィクションだ。フィクションというところから俺たちは一斉にスタートする。無差別級だ」みたいな感じだった。
前田は古川日出男作品が好きだが、本質的に何が好きかといえば、恐らく、上記のフィクション宣言のような精神だと感じた。
・リアル
さて、本題はここからである。恐らく、今後前田が小説を書く限りつき纏う問題だ。それが「リアリティとは?」。当blogでもたびたびこの題材を「読書」の項で取り上げている。岸部露伴は「リアリティこそが最高のエンタテイメントだ」といった。この言葉の意味を、作家は真剣に考えなければならないと、前田は感じている。
まずは言葉を分解する。リアリティに似た音の単語に「リアル」がある。このリアルの意味を定義する。
「リアル=現実を再現すること」
現実を定義しなければリアルの定義も成立しないので、ここでいう現実も定義しておく。
「現実=作品外の世界」
ここでいう作品とは、その小説、その漫画、その映画、そのドラマ、ということ。通常は、現実とは、我々の世界である(なんとも抽象的だが、通じるだろうか? そもそも、現実という言葉は感覚的に捉えればいいと思うので、この定義にはあまり意味がないかもしれない)。
つまり、リアルとは、どれだけ現実と同じかを表す形容詞として定義される。例えば、警察小説を書く際に警察機構のことを調べなければならないのは「リアルな警察」を書くためだ。資料漁りは、基本的に、このリアルを追求するために行われるものだと思う。
このように定義すると、例えば次のようなことがいえるだろう。
「ファンタジィはリアルではない」「S.F.はリアルではない」「ホラーはリアルではない」
このことから解るように、リアルさは、作品の面白さと直結しない。
(続く)
超絶技巧練習曲の四番である。今聞いているが、やはりLisztは恐ろしいな。
・混ぜてみた
「こんなとき、どういう顔をすればいいか分からないもの……」
「それは君の自由だ」
・男汁
やばい。森見登美彦のblogが面白すぎる。
リンク>この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ
纏めて読んだ結果、思考に影響を受けてしまい、小説の執筆が停滞した。恐ろしい。
・フィクション宣言
「FICTION ZERO/NARRATIVE ZERO」という文芸誌が発行されていた。古川日出男が執筆人のリーダっぽく扱われていたので気になり、少し読んでみた。
巻頭にあったのが、古川日出男による「フィクション宣言」だった。その内容は、「小説だとか文学だとか、ライトだとかヘビィだとか、そんなくくりはどうだっていい。全部フィクションだ。フィクションというところから俺たちは一斉にスタートする。無差別級だ」みたいな感じだった。
前田は古川日出男作品が好きだが、本質的に何が好きかといえば、恐らく、上記のフィクション宣言のような精神だと感じた。
・リアル
さて、本題はここからである。恐らく、今後前田が小説を書く限りつき纏う問題だ。それが「リアリティとは?」。当blogでもたびたびこの題材を「読書」の項で取り上げている。岸部露伴は「リアリティこそが最高のエンタテイメントだ」といった。この言葉の意味を、作家は真剣に考えなければならないと、前田は感じている。
まずは言葉を分解する。リアリティに似た音の単語に「リアル」がある。このリアルの意味を定義する。
「リアル=現実を再現すること」
現実を定義しなければリアルの定義も成立しないので、ここでいう現実も定義しておく。
「現実=作品外の世界」
ここでいう作品とは、その小説、その漫画、その映画、そのドラマ、ということ。通常は、現実とは、我々の世界である(なんとも抽象的だが、通じるだろうか? そもそも、現実という言葉は感覚的に捉えればいいと思うので、この定義にはあまり意味がないかもしれない)。
つまり、リアルとは、どれだけ現実と同じかを表す形容詞として定義される。例えば、警察小説を書く際に警察機構のことを調べなければならないのは「リアルな警察」を書くためだ。資料漁りは、基本的に、このリアルを追求するために行われるものだと思う。
このように定義すると、例えば次のようなことがいえるだろう。
「ファンタジィはリアルではない」「S.F.はリアルではない」「ホラーはリアルではない」
このことから解るように、リアルさは、作品の面白さと直結しない。
(続く)
・コメント返信
>kisaさん
確かに書かれた。
・スパン
相変わらずの久々更新。出力はめんどうだ、ということ。そんなこと言ってたら小説なんて書いてられんのだけど。
・面接
大学院の入試が終了。果たして結果は如何に。
・読書
「SHORT PROGRAM 3/あだち充」が発売されていた。購入。短編集。1989年の作品から、2007年の作品まで。武論尊原作の作品もあった。
恐るべしと感じたのは「天使のハンマー」。84Pの最下段の表情が凄い。大きなショックを受けたのは解るのだが、それだけではない、言葉を使って表せない表情をしていた。少なくとも前田の力では表現できない。だからこそなのか、この作品の最重要ポイントになっていると思う。
ミステリと動機は切っても切れない関係にあるが、果たしてどのような動機がいいのか。愛憎だとか金だとかは解り易く、多くの人に納得される動機だろう。異常な動機(乱歩の孤島の鬼だとか)は解り難いが、読者に鮮烈なものを与えることができる。「天使のハンマー」はどちらにも区分できないような気がした。動機は解るが、その解る動機だけでは人を殺すに足りないのだ。その動機を加速させるような「何か」があって、結果、殺してしまった、というようになっていると思う。その「何か」が現れているのが84Pの表情であって、この作品に於ける圧倒的な説得力であり、その複雑さときたら人間の持つ複雑さそのものなのだ。言葉にはできないようなことで人は人を殺す。そこに前田はリアルな人間があると感じた。
>kisaさん
確かに書かれた。
・スパン
相変わらずの久々更新。出力はめんどうだ、ということ。そんなこと言ってたら小説なんて書いてられんのだけど。
・面接
大学院の入試が終了。果たして結果は如何に。
・読書
「SHORT PROGRAM 3/あだち充」が発売されていた。購入。短編集。1989年の作品から、2007年の作品まで。武論尊原作の作品もあった。
恐るべしと感じたのは「天使のハンマー」。84Pの最下段の表情が凄い。大きなショックを受けたのは解るのだが、それだけではない、言葉を使って表せない表情をしていた。少なくとも前田の力では表現できない。だからこそなのか、この作品の最重要ポイントになっていると思う。
ミステリと動機は切っても切れない関係にあるが、果たしてどのような動機がいいのか。愛憎だとか金だとかは解り易く、多くの人に納得される動機だろう。異常な動機(乱歩の孤島の鬼だとか)は解り難いが、読者に鮮烈なものを与えることができる。「天使のハンマー」はどちらにも区分できないような気がした。動機は解るが、その解る動機だけでは人を殺すに足りないのだ。その動機を加速させるような「何か」があって、結果、殺してしまった、というようになっていると思う。その「何か」が現れているのが84Pの表情であって、この作品に於ける圧倒的な説得力であり、その複雑さときたら人間の持つ複雑さそのものなのだ。言葉にはできないようなことで人は人を殺す。そこに前田はリアルな人間があると感じた。
・シガーキス
本日、この名詞を知った。なるほど、非常に解り易い。
・犯罪
日本の犯罪者の90%超は「A」を日常的に観ている。また、刑務所では「A」の観賞を制限している。つまり「A」が原因となって犯罪を起こしているのだと考えられる。よって、「A」は根絶されるべきである。
「A」とは何か? 答えはテレビのコンテンツ。
この考えは明らかにおかしいよね。
・ジェネレータ
某所の記事を受けて、考えてみた。
製作法が簡単化されると、生み出されるものの質は落ちる。多分、これは本当の話だと思う。
理由は「オリジナルの価値」にある。オリジナルの功績とは、最初にそれをやった(作った)ということである。目新しく(かつ面白い)となれば、多数の人間はこれに飛びつく。そして一部の人間が「模倣」を始める。「オリジナル」の何を採用するかということにもよるが、「模倣」も面白くなれる。「模倣」するにしても、それには工夫や試行錯誤が必要だ。つまり別のオリジナルを付加する必要がある。
ところが、この「模倣」の方法論が非常に簡単化されるとどうなるか? 言い換えれば、誰でも「模倣」できるようになるとどうなるか? 答えは単純で、大量に作られる。みんな「オリジナル」を面白いと思っているから、自分の「模倣(コピィ)」も面白いと思ってしまうのだ。だから、作られる。しかし実際には、そこに「オリジナル」のような価値はない。多少の改変によってコピィした人間のオリジナルは付加されるが、それは非常に弱い(だから誰でも作れる)。従って、面白くない。
このことに気づけない大衆は多量の「コピィ」を作り出す。すると「オリジナル」から生まれたジャンルにあるコンテンツが薄まる。面白い作品も存在するが、それよりもつまらない作品の方が圧倒的に多い、という状態になるということ。
具体的な例で解り易いのが2chの「コピペ」やニコニコ動画の「歌ってみた」などだろう。どちらも最初にやった人(コンテンツ)が最も凄い。真似される殆どのものはつまらない。どちらも簡単に真似できるし、コピペは事実ジェネレータが存在するものもある。
小説でもジェネレータに近いものは存在する。ロラン・バルトの「物語の構造分析」がその一つのようだ。
以下はかなり憶測である。
小説は多分に筆者のオリジナルが入り込み、誰にでも書けるというものではないから、このようなジェネレータで面白いものを書くことは可能だろう。しかしそのような小説は名作にカウントされないのではないだろうか? 一時期、日本のミステリ会では松本清張の登場により、社会派ミステリが大ブームとなった。多量の社会派ミステリが書かれたが、果たして、未だに読まれる社会派ミステリ作家は、清張以外に誰かいるのだろうか? 前田は謙遜でも何でもなく寡聞なので知らない。
・読書
「地球儀のスライス/森 博嗣」を読んでいる。短編集。何度目かは既に憶えていない。執筆に対する感覚が鈍ると、前田はこれを読むことにしている。
そんなわけで「文鳥・夢十夜/夏目漱石」と「河童・或阿呆の一生/芥川龍之介」が途中で止まってしまった。
理由は他にもあって、単純に、解らん。特に前者の「永日小品」が難しい。日常すぎる。保坂みたいにすらすらと気持ちよく読める文章でもないし。困った。
本日、この名詞を知った。なるほど、非常に解り易い。
・犯罪
日本の犯罪者の90%超は「A」を日常的に観ている。また、刑務所では「A」の観賞を制限している。つまり「A」が原因となって犯罪を起こしているのだと考えられる。よって、「A」は根絶されるべきである。
「A」とは何か? 答えはテレビのコンテンツ。
この考えは明らかにおかしいよね。
・ジェネレータ
某所の記事を受けて、考えてみた。
製作法が簡単化されると、生み出されるものの質は落ちる。多分、これは本当の話だと思う。
理由は「オリジナルの価値」にある。オリジナルの功績とは、最初にそれをやった(作った)ということである。目新しく(かつ面白い)となれば、多数の人間はこれに飛びつく。そして一部の人間が「模倣」を始める。「オリジナル」の何を採用するかということにもよるが、「模倣」も面白くなれる。「模倣」するにしても、それには工夫や試行錯誤が必要だ。つまり別のオリジナルを付加する必要がある。
ところが、この「模倣」の方法論が非常に簡単化されるとどうなるか? 言い換えれば、誰でも「模倣」できるようになるとどうなるか? 答えは単純で、大量に作られる。みんな「オリジナル」を面白いと思っているから、自分の「模倣(コピィ)」も面白いと思ってしまうのだ。だから、作られる。しかし実際には、そこに「オリジナル」のような価値はない。多少の改変によってコピィした人間のオリジナルは付加されるが、それは非常に弱い(だから誰でも作れる)。従って、面白くない。
このことに気づけない大衆は多量の「コピィ」を作り出す。すると「オリジナル」から生まれたジャンルにあるコンテンツが薄まる。面白い作品も存在するが、それよりもつまらない作品の方が圧倒的に多い、という状態になるということ。
具体的な例で解り易いのが2chの「コピペ」やニコニコ動画の「歌ってみた」などだろう。どちらも最初にやった人(コンテンツ)が最も凄い。真似される殆どのものはつまらない。どちらも簡単に真似できるし、コピペは事実ジェネレータが存在するものもある。
小説でもジェネレータに近いものは存在する。ロラン・バルトの「物語の構造分析」がその一つのようだ。
以下はかなり憶測である。
小説は多分に筆者のオリジナルが入り込み、誰にでも書けるというものではないから、このようなジェネレータで面白いものを書くことは可能だろう。しかしそのような小説は名作にカウントされないのではないだろうか? 一時期、日本のミステリ会では松本清張の登場により、社会派ミステリが大ブームとなった。多量の社会派ミステリが書かれたが、果たして、未だに読まれる社会派ミステリ作家は、清張以外に誰かいるのだろうか? 前田は謙遜でも何でもなく寡聞なので知らない。
・読書
「地球儀のスライス/森 博嗣」を読んでいる。短編集。何度目かは既に憶えていない。執筆に対する感覚が鈍ると、前田はこれを読むことにしている。
そんなわけで「文鳥・夢十夜/夏目漱石」と「河童・或阿呆の一生/芥川龍之介」が途中で止まってしまった。
理由は他にもあって、単純に、解らん。特に前者の「永日小品」が難しい。日常すぎる。保坂みたいにすらすらと気持ちよく読める文章でもないし。困った。