・ホラー
電話がかかってきた。もう何度目だろうか。いちいち電話の前に行くのも一苦労である。
「もしもし。わたし、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」
「え? どこ?」
「あなた……眼が……」
・ざわ・・ざわ・・2
前回の記事だが、追記が必要な気がしている。
電話がかかってきた。もう何度目だろうか。いちいち電話の前に行くのも一苦労である。
「もしもし。わたし、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」
「え? どこ?」
「あなた……眼が……」
・ざわ・・ざわ・・2
前回の記事だが、追記が必要な気がしている。
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・コメント返信
>Saki
感情の反作用があって、それが石にも通じるのだとすれば、感情というのは人間だけのものではなくなる。「人間しか持ち得ない」という感情の神秘性が失われる。
と、まあ、ものは言いようで、結局、神秘性はなくなるのであった!
・ざわ‥ざわ‥
福本マンガは微塵も関係がない。最近、ネット上でもよく見る沢尻エリカの騒動である。前田はあまり興味がなかったのだが、とある記事を読んで少し面白かった(interestingの方である)。
リンク>巧言令色吉野仁 ここの「孤低のつぶやき」の10/5の記事。
前田はこの騒動をみて「過剰反応ではないのか?」と思っていた。前田の持っている情報は「沢尻エリカが映画の舞台挨拶で、ファンを前にした場面で、あからさまに不機嫌な態度をとり、これに対し怒りをみせている人間がいる」ということである。
確かに沢尻の態度はダメであっただろう。仕事上のミスである。責められてもしょうがない。しかし、どうして和田アキコや岡村隆史が怒るのだろう? 映画のスタッフが怒るなら分かる。舞台挨拶も彼らの仕事の結果の一部だろうから。あと、舞台挨拶の観客。
マスコミや情報の消費者を含めてだが、関係ない人が怒りをみせているという辺りに、前田は上記リンクの記事にあったような「いじめ」をみる。
ただ、マスコミ、消費者はともかく、和田や岡村が怒るのを一概に「いじめ」と判ずることはできないと思う。理由は単純で、この二者は沢尻よりも芸能人として先輩にあたるからだ。後輩のミスを先輩が叱るのは、どんな業界でも当たり前のことだろう。問題なのは叱る「動機」と「強度」ではないだろうか。
まず動機。もし怒っている人が「沢尻は間違っている。だから怒ってもいい」というように考えているのならば、これはいじめになるのではないかと前田は思う。つまり、相手のミスにつけこみ、こき下ろして、自分を上にするという意味だ(上記のカッコ書きの文章が、普遍的にこのような真意を含むわけではない)。更に「上である自分カッコイイ!」が加わると、まあ、ひどいもんである。この場合が、学校であるいじめの一形態かもしれない。
他にも「あいつが気に入らん」というのもいじめの範囲だろう。責める理由をみつけたから責める、という形である(アンチ沢尻の攻撃は、ほとんどこのパターンではないだろうか)。
次に、強度。これは判定が難しいと思うが、まあ、芸能界という実力を求められる業界においては、相当に上げてもいじめにはならない気がする(もちろん、動機がいじめなら強度に関係なくいじめだろうけど)。それでも、限界というのはあるだろうけど(例の相撲部屋の事件は、この強度を間違えたのではないか、と思っているのだが)。
一般的には、この強度の加減は業界と、個人によるものだと思う。プロスポーツなんかだと「辞めてしまうかもしれない」くらいの強度でも、間違いではないと思う。なにせ、実力がなければ生き残れない世界だ。下手にしがみついて年齢を重ねてしまえば、新しい人生を開くのが難しくなってしまう。ならばそうなる前に諦めさせるというのも、先輩としての仕事なのかもしれない。ただ、辞めさせるくらいの強度とはどれくらいだとか、その選手が生き残れない程度の才能しかないとどうやって判断するかだとか、そういう点が非常に難しい。これがつまり、教育の難しさの一つだろう。同じチームならば、素晴らしい才能を潰すのは望ましくないと考えることもできるし。
・映画化
「チーム・バチスタの栄光/海堂尊」が映画化されるらしい。主人公の田口(40代。男)が、何故か女性に。
これはアレか。そういった地味な役柄は世間に受けないということなのか? ちょっと悲しいものがある。
しかし白鳥役に阿部寛は見事な気がするぞ。
・読書
引き続き「ハル、ハル、ハル/古川日出男」を読んでいる。「スローモーション」を読了。
この作品は……何だ……? よく分からん。再読対象か。
>Saki
感情の反作用があって、それが石にも通じるのだとすれば、感情というのは人間だけのものではなくなる。「人間しか持ち得ない」という感情の神秘性が失われる。
と、まあ、ものは言いようで、結局、神秘性はなくなるのであった!
・ざわ‥ざわ‥
福本マンガは微塵も関係がない。最近、ネット上でもよく見る沢尻エリカの騒動である。前田はあまり興味がなかったのだが、とある記事を読んで少し面白かった(interestingの方である)。
リンク>巧言令色吉野仁 ここの「孤低のつぶやき」の10/5の記事。
前田はこの騒動をみて「過剰反応ではないのか?」と思っていた。前田の持っている情報は「沢尻エリカが映画の舞台挨拶で、ファンを前にした場面で、あからさまに不機嫌な態度をとり、これに対し怒りをみせている人間がいる」ということである。
確かに沢尻の態度はダメであっただろう。仕事上のミスである。責められてもしょうがない。しかし、どうして和田アキコや岡村隆史が怒るのだろう? 映画のスタッフが怒るなら分かる。舞台挨拶も彼らの仕事の結果の一部だろうから。あと、舞台挨拶の観客。
マスコミや情報の消費者を含めてだが、関係ない人が怒りをみせているという辺りに、前田は上記リンクの記事にあったような「いじめ」をみる。
ただ、マスコミ、消費者はともかく、和田や岡村が怒るのを一概に「いじめ」と判ずることはできないと思う。理由は単純で、この二者は沢尻よりも芸能人として先輩にあたるからだ。後輩のミスを先輩が叱るのは、どんな業界でも当たり前のことだろう。問題なのは叱る「動機」と「強度」ではないだろうか。
まず動機。もし怒っている人が「沢尻は間違っている。だから怒ってもいい」というように考えているのならば、これはいじめになるのではないかと前田は思う。つまり、相手のミスにつけこみ、こき下ろして、自分を上にするという意味だ(上記のカッコ書きの文章が、普遍的にこのような真意を含むわけではない)。更に「上である自分カッコイイ!」が加わると、まあ、ひどいもんである。この場合が、学校であるいじめの一形態かもしれない。
他にも「あいつが気に入らん」というのもいじめの範囲だろう。責める理由をみつけたから責める、という形である(アンチ沢尻の攻撃は、ほとんどこのパターンではないだろうか)。
次に、強度。これは判定が難しいと思うが、まあ、芸能界という実力を求められる業界においては、相当に上げてもいじめにはならない気がする(もちろん、動機がいじめなら強度に関係なくいじめだろうけど)。それでも、限界というのはあるだろうけど(例の相撲部屋の事件は、この強度を間違えたのではないか、と思っているのだが)。
一般的には、この強度の加減は業界と、個人によるものだと思う。プロスポーツなんかだと「辞めてしまうかもしれない」くらいの強度でも、間違いではないと思う。なにせ、実力がなければ生き残れない世界だ。下手にしがみついて年齢を重ねてしまえば、新しい人生を開くのが難しくなってしまう。ならばそうなる前に諦めさせるというのも、先輩としての仕事なのかもしれない。ただ、辞めさせるくらいの強度とはどれくらいだとか、その選手が生き残れない程度の才能しかないとどうやって判断するかだとか、そういう点が非常に難しい。これがつまり、教育の難しさの一つだろう。同じチームならば、素晴らしい才能を潰すのは望ましくないと考えることもできるし。
・映画化
「チーム・バチスタの栄光/海堂尊」が映画化されるらしい。主人公の田口(40代。男)が、何故か女性に。
これはアレか。そういった地味な役柄は世間に受けないということなのか? ちょっと悲しいものがある。
しかし白鳥役に阿部寛は見事な気がするぞ。
・読書
引き続き「ハル、ハル、ハル/古川日出男」を読んでいる。「スローモーション」を読了。
この作品は……何だ……? よく分からん。再読対象か。
・ねぎ
リンク>ねぎ姉さん
強烈な4コママンガ。
・喜怒哀楽V.S.粒子物理
感情は果たして人間だけのものなのか?
人間だけのものだとすると、そこらへんの石は何も感じておらず、神秘性がない。
人間だけのものじゃないとするとどうだろう? 多分、この場合、感情というのは所詮、人間の脳内を運動する荷電粒子に過ぎないということになるだろう。そうなると、やっぱり神秘性がない。
リンク>ねぎ姉さん
強烈な4コママンガ。
・喜怒哀楽V.S.粒子物理
感情は果たして人間だけのものなのか?
人間だけのものだとすると、そこらへんの石は何も感じておらず、神秘性がない。
人間だけのものじゃないとするとどうだろう? 多分、この場合、感情というのは所詮、人間の脳内を運動する荷電粒子に過ぎないということになるだろう。そうなると、やっぱり神秘性がない。
・コメント返信
>kisaさん
天帝シリーズであります。
早くもボーダーラインの三冊目ですな。
・購入録
「ハル、ハル、ハル/古川日出男」購入。
執筆が進まなくて、むしゃくしゃして買った。財布の中が200円になるも、後悔する余地がない。
・読書
んで、「ハル、ハル、ハル/古川日出男」の表題作のみ、読了。
「この物語は全ての物語の続編だ」という、アオリにもなっている文章からして、前田にとっては驚異的だった。たとえハッタリだとしても、そのような文句を発想し、小説の中にブチ込むのは容易ではないだろう。そして真に恐るべきは、その文章が全くのハッタリではなかったことだ。「全て」ではなかった。なかったが、この「ハル、ハル、ハル」という物語は、前田がかつて読んだ物語の続編に位置した。古川日出男作品の続編という意味ではなく、かつて読者が読んだ物語の続編、という意味だ。
脅威にすら値する。完全に「フィクション」だと断言しながら、ここまで読者の「現実」に踏み込んでくる作品を、前田は寡聞にして知らない。ここまで圧倒的なリアリティを見たことはない。文学がテロだと言うのならば、一読した感想でしかないが、前田は賛同する。
少々惜しくらむは、この作品が物語だとは感じなかったという点。エンタテイメントとの違いなのかもしれない。しかしそれ以上に、前田はこの作品は「物語と物語の間にあるもの」というように感じた。物語とは、もちろん、読者が読む物語のことだ。
レビューで褒めすぎるのは良くないと思うが、それでも前田は褒めたがっている。今の古川文学は、本当に凄い。「面白い」ではない。「凄い」だ。
>kisaさん
天帝シリーズであります。
早くもボーダーラインの三冊目ですな。
・購入録
「ハル、ハル、ハル/古川日出男」購入。
執筆が進まなくて、むしゃくしゃして買った。財布の中が200円になるも、後悔する余地がない。
・読書
んで、「ハル、ハル、ハル/古川日出男」の表題作のみ、読了。
「この物語は全ての物語の続編だ」という、アオリにもなっている文章からして、前田にとっては驚異的だった。たとえハッタリだとしても、そのような文句を発想し、小説の中にブチ込むのは容易ではないだろう。そして真に恐るべきは、その文章が全くのハッタリではなかったことだ。「全て」ではなかった。なかったが、この「ハル、ハル、ハル」という物語は、前田がかつて読んだ物語の続編に位置した。古川日出男作品の続編という意味ではなく、かつて読者が読んだ物語の続編、という意味だ。
脅威にすら値する。完全に「フィクション」だと断言しながら、ここまで読者の「現実」に踏み込んでくる作品を、前田は寡聞にして知らない。ここまで圧倒的なリアリティを見たことはない。文学がテロだと言うのならば、一読した感想でしかないが、前田は賛同する。
少々惜しくらむは、この作品が物語だとは感じなかったという点。エンタテイメントとの違いなのかもしれない。しかしそれ以上に、前田はこの作品は「物語と物語の間にあるもの」というように感じた。物語とは、もちろん、読者が読む物語のことだ。
レビューで褒めすぎるのは良くないと思うが、それでも前田は褒めたがっている。今の古川文学は、本当に凄い。「面白い」ではない。「凄い」だ。
・出版メモ
米澤穂信、新刊。
古野まほろ、新刊。
貴志祐介、硝子のハンマーが文庫落ち。
・筑波
二泊三日の実験施設見学ツアーであって、宿舎にはパソコンもなく、前田はノートPCを持っておらず、結果、執筆は行わず、読書して、レーザの勉強とプロットを少し進めようとしただけであった。
執筆の習慣が途切れたのはよろしくなかったと、今現在、思っている。
・読書(バレ含む)
「ナラタージュ/島本理生」読了。佐藤友哉の妻。初島本。正統な感じの恋愛物であった。
最も印象に残ったのは、会話中の仕草。マフラーをなおすという、それだけの文章。心理説明・描写ではなく、ただ自然な仕草を会話の間に挟むというのが、これほど面白く感じれるとは。
ストーリーは(恐らく)悲恋。前半は平和なのに、後半が悲しくなっている。この作品の悲しみに共通する要素を一言で表すなら「すれ違い」か?
前半の平和さも良いのだが、やはり面白くなるのが、後半に入ってから。ストーリーに於けるネガティブは、やはり面白くするために必要な要素なのか。恋愛物の場合は、特に。
しかし前田は、この物語にネガティブがあって欲しくなかった。勿論、あった方が面白いのは確かなのだが、個人的な好みとして、平和なままがよかったのだ。
このような嗜好、つまり「平和なままがいい」という好みは、ある領域の作品(といっても、前田は数知っているわけでもないのだが)に反映されていると思う。何かといえば「あずまんが大王/あずまきよひこ」「よつばと/あずまきよひこ」「スケッチブック/小箱とたん」といった作品群だ(あずまが多いのは前田の知識の問題である)。笑いはあるが、それはゲラゲラ笑うようなものではなく日常の微笑ましさであるような、そんな作品群である。このような作品群が受け入れられるならば、平和なままのナラタージュも受け入れられるのではないだろうか?
ところが、恋愛という要素を以って、上記の作品群とナラタージュは見事に分断されそうだ。
米澤穂信、新刊。
古野まほろ、新刊。
貴志祐介、硝子のハンマーが文庫落ち。
・筑波
二泊三日の実験施設見学ツアーであって、宿舎にはパソコンもなく、前田はノートPCを持っておらず、結果、執筆は行わず、読書して、レーザの勉強とプロットを少し進めようとしただけであった。
執筆の習慣が途切れたのはよろしくなかったと、今現在、思っている。
・読書(バレ含む)
「ナラタージュ/島本理生」読了。佐藤友哉の妻。初島本。正統な感じの恋愛物であった。
最も印象に残ったのは、会話中の仕草。マフラーをなおすという、それだけの文章。心理説明・描写ではなく、ただ自然な仕草を会話の間に挟むというのが、これほど面白く感じれるとは。
ストーリーは(恐らく)悲恋。前半は平和なのに、後半が悲しくなっている。この作品の悲しみに共通する要素を一言で表すなら「すれ違い」か?
前半の平和さも良いのだが、やはり面白くなるのが、後半に入ってから。ストーリーに於けるネガティブは、やはり面白くするために必要な要素なのか。恋愛物の場合は、特に。
しかし前田は、この物語にネガティブがあって欲しくなかった。勿論、あった方が面白いのは確かなのだが、個人的な好みとして、平和なままがよかったのだ。
このような嗜好、つまり「平和なままがいい」という好みは、ある領域の作品(といっても、前田は数知っているわけでもないのだが)に反映されていると思う。何かといえば「あずまんが大王/あずまきよひこ」「よつばと/あずまきよひこ」「スケッチブック/小箱とたん」といった作品群だ(あずまが多いのは前田の知識の問題である)。笑いはあるが、それはゲラゲラ笑うようなものではなく日常の微笑ましさであるような、そんな作品群である。このような作品群が受け入れられるならば、平和なままのナラタージュも受け入れられるのではないだろうか?
ところが、恋愛という要素を以って、上記の作品群とナラタージュは見事に分断されそうだ。