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 作家・今村友紀がこれから先の文芸界に関して色々考えて何かやろうとしている。「小説」「文学」「小説家」「物書き」といった言葉に何か憧れのようなものを感じる人みんなに読んで欲しいくらい。
リンク>文学フリマ・文学の今後について まとめ

 やりたいことをものすごく簡略化してしまえば、
「文芸同人とプロを直につなげる道を作りたい」
「プロになるための選考会の過程を公開したい」
 というところだろうか。
 文芸界はプロとアマの間に大きな壁があり互いの交流が乏しい、この壁を取っ払ってプロもアマもみんなで面白い作品を書けるようになろう、みんなで文芸界を盛りあげていこう……ということだと思う。

 特に面白そうなのが「選考会の過程を公開したい」というあたり。大塚英志の言葉が指す方向を向いているような気がする。

----引用開始----
確かに小説を書くということは何かその人の内側にある特別なものの所在を証明するかのような行為にも似ていて、この国に限っても文学は衰退した、などと戦後一貫して言われ続けてきたにも拘わらず未だ文学者たちがそれなりに社会的な地位を維持し続けることができたのも、つまりは小説を書くという行為が一種の〈秘儀〉として神聖視されているからだという側面があります。
(中略)
小説を書く力はどこからどこまでが凡人には真似できないもので、どこまでならば凡人にも真似したり学習できてしまうものなのでしょうか。ぼくはこの講義を通じて、その線引きをしてみようと思います。その結果として〈秘儀〉の領域は小説にどれほど残されるのか、あるいは全く残らないのか、そのことを確かめてみようと考えてみます。
----引用終了----
(物語の体操/大塚英志 p9~10)

 大塚英志は小説を腑分けしマニュアル化することで文学の〈秘儀〉を疑っている。そして疑うことによって、誰かには真似できない文学の〈秘儀〉が存在するということを信じているのだろう。
 今村友紀が上に引用した言葉を思い浮かべているかどうか、文学の〈秘儀〉というものを信じているのかどうかは不明だが、プロへの選考会の過程……どのように応募作品を評価し、どうして落選させたか、通過させたかを明らかにすることは、引用文の「線引き」に相当していて、文学の〈秘儀〉に迫ることになるんじゃなかろうか。

 しかしこういう小難しい言葉なんか抜きにして、今村友紀の計画は面白そうだ。これでプロとアマの(不要な)垣根が取っ払われて、文壇も同人も面白くなっていき、文芸が盛り上がるなら、そんな素晴らしいことはない。

 前田も今村氏の活動で応援できることがあるならば応援したいと思う。


 余談。今村友紀は第48回文藝賞でデビューしているのだが、前田も同じ回の文藝賞に応募していて四次落選だった。ので、なんか、氏の活動をみていると悔しいというか、自分が情けない感じ。
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2012/11/18(日)に開催される文学フリマ(公式サイト)に参加します。

サークル:ストリカ制作委員会(Eホール、D-66)
タイトル:Storica Scape(ストリカスケイプ) LightNovel×純文学
価格:200円
ページ数:132P(B5版)

Storica Scape LightNovel×純文学

失恋しながら散歩する大学生、黒い噂を調べる女子生徒と"仕事"で学園を訪れた男、被害者になりたがるヤツだらけのミステリ的嵐の山荘、罪について議論する幼女と人工生命体、魔法について考える人……計五編を収録した短編作品集です。
ラノベ読みの人は「なんだこの小説は!?」となり、純文学読みの人は「なんだこの小説は!?」となること請け合い。

収録作品名は以下の通りです。
・夢以外を見そう/前田望
・Pの流儀/蔦橋橙
・嵐を呼ぶドMだらけの連続ご褒美事件/森川慶樹
・目覚めよグリッチ/theeta_amphibian
・波に逆らわない/高原名月

試し読みは以下のリンクから。1Mていどのpdfファイルになってます。
Storica Scape LightNovel×純文学サンプル

当日は
「Storica Scape Vol.1」
「Storica Scape Vol.2」
も一緒に販売します。
 レメディオスの精神はゼロ歳の頃に戻っている。そう、ゼロ歳。あの年だ。あの1989年。レメディオスはあの1989年にゼロ歳だった。誕生した。母親の膣から頭を出して、臍の尾に捉えられていた。分娩台の上、熱した空気、巨大な扇を振る男。レメディオス、レメディオスは知りはしないが、その男は父親だ。レメディオスの身体は、いや、違う。身体ではない。レメディオスを構成するDNAの半分は、その男のものだ。だがレメディオスはそんなことを知りはしない。彼女が16歳になってDNAという概念を得るまで、自分の身体の、いたるところに父親の痕跡が確実に存在しているということ、この事実を知りはしない。
 だが、そのようなことは、どうでもいい。
 重要なのは別の場所にある。ゼロ歳のレメディオス、その肉体。そこではなく。もっと外側だ。この熱された空気の中にある。湿気を帯びた、レメディオスを取り巻いている様々な大人たちの皮膚に汗が浮かび、瞼に疲れが見え、それでも頬を上記させている大人たちを取り巻いている、この空気の中に。
 それは音と呼ばれている。
 レメディオス、レメディオス自身は知りはしないが、理解はしている。自分と世界の境界さえ分からない彼女でも、理解が可能だ。音いうもの。つまり空気の振動というもの。これに肌で触れて、彼女は理解に至っている。音とは何か? 耳以外の器官で、それから耳で受容したとしても、聴覚を除いた感覚で理解できるのだ。それは耳の奥、鼓膜を震わせる。だが、聴覚以外の感覚は聴覚の数よりも多い。そうだろう。視覚があり嗅覚があり味覚があり触覚がある。1対4の比率……多勢に無勢の感覚があるから、レメディオスにとって音とは聴覚と結ばれない。いや、結ばれにくい。
 例えば触覚で聞く。音は空気の振動だ。そうだろう? そこに圧力がある。圧縮された空気と希薄になった空気、その連続した分布が移動していく……これが振動だ。縦波と呼ばれる現象だ。それが、皮膚に、触れる。レメディオスの皮膚に。
 大人たちの皮膚にも触れる。触れてはいる。だが、誰も気づいていない。みんな鈍感だ。レメディオス、レメディオスの父親も、お前に名前を与えるために馳せ参じた神父も、ただの野次馬でしかない大人たちも、産婆も、それから、お前の名前を記録するために役所から派遣された役人、誰にも分からないレメディオスの未来を予言しようとする占い師。その誰もが、言葉を操ることに習熟した大人たちの誰もが、レメディオス、レメディオスと同じように音を感じない。彼らにとって音は耳から受容するものだ。
 しかし例外はいる。完全ではないが、しかし、似ている。ゼロ歳のレメディオスに。
 レベーカ。
 レベーカは四歳。レメディオスの四年前に生まれ、ゼロ歳のレメディオスと同じように臍の尾に捉えられながら、同じような熱気の、つまり、ゼロ歳のレメディオスの触れているものとは異なる空気の中で産まれた。レベーカもここにいる。ゼロ歳のレメディオスが産まれた瞬間を見ている。
 話を戻そう。振動だ。
 そうだ、レメディオスは産まれた。熱気の中で、それから、音を聞いた。聴いている。盛大な、まさに母親の腹の中では知りえなかった音が全身を包んでいる。
 違う。この表現は嘘だ。包んでいるのではない。
 泣いているのはレメディオスだ。
 レメディオス自身が音源になっている。音は彼女を包んでいる、これは確かだが、それだけではないのだ。喉の奥の奥の奥の奥の奥で泣き声が生じて、レメディオスの身体の中を駆け巡りながら口から飛び出している。だから包んではいない。そうだろう、レメディオスを、レメディオスの身体を内外問わず叩き続けるのが、音だ。空気の振動の形をして、レメディオスの五感全てをびりびりと刺す。刺して、レメディオスは泣く。泣けばいい。部屋の空気全てが泣き声になる。熱気は全て泣き声の吸収される。熱とは空気分子の振動だ。振動なのだ。
 思い出すか、レベーカ。ゼロ歳の頃の精神、産まれた直後の時間、それらを思い出すか、いや、甦らせるのか、レベーカ。まだ四歳で、言葉が獲得されてはいても習熟はしていない子ども、レベーカ。そうやって、感覚が思い出される。かつて自分が感じていたものだ。今はレメディオスが泣いている。そのときに泣いていたのはレベーカだ。
 レベーカは区別がつけられない。自分の感覚は、今、どこにいるのか?
 レベーカは泣いていない。しかし自分の中に感じられるものがある。思い切り泣いたときの内臓の振動がある。これは錯覚だ。しかし嘘ではない。フィクションとしてレベーカが泣いているのではなく、現実として彼女は泣いている。それと同じ状態にある。
 空気の振動がレベーカをゼロ歳に戻し、レメディオスがこの世に産まれた証拠としてレメディオス自身の中に振動の痕跡を刻む。五感は完全に動員されている。レベーカとレメディオスの全感覚は末端から核から末端まで全て同じものを感じている。
 赤ん坊の泣き声。
 大人たちは感じない。彼らはこう思っている。「赤ん坊が泣いている」。そう、泣いているには違いない。だが、大人たちにとっては泣いているだけに過ぎないのだ。静かに聞けば分かる。分かるだろう? 少し前の時間を思い出せば勘付けるはずだろう? さっきまで、レメディオスがこの世界に触れるほんの少し前まで、この部屋は暑かった。完全で完璧な夏の気温で、閉じられた部屋の湿気は空気中の水分をつまめそうなほどに飽和して、ノウトウゴ地方特有の土とクレソンとアルコールの混じった臭気があった。
 それが全て押し流されている。レメディオスの泣き声、その振動、圧力。熱気も湿気も臭気も、物凄い数の振動ととてつもなく高い圧力に押し流されている。この部屋を支配するのは泣き声なのだ。それ以外にない。
 感じ取れないか? ならば君はレメディオスではない。レベーカではない。
 しかしレベーカは感じ取れる。レメディオスは、さらに、もっと。
 レベーカの眼に涙が溜まり始める。泣くのだ。彼女もまた泣くのだ。ここの空気、窒素分子の集合体、酸素分子の集合体、二酸化炭素分子の集合体、その他諸々の希ガス原子の集合体に押されて……つまり五感を突き動かされて、悲しみなどという言葉とは全く無縁のものによってレベーカは眼に涙を溜めた挙句に零し、泣く。泣き喚く。彼女の中に、つまり肉体的な喉の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥に、泣き声が発生して、全身、つまり内外の肉全てを震わせながら泣く。泣き声はふたつになる。いよいよ空気の振動が部屋全体を支配する。レメディオスにとっての世界全てを支配した。
 レメディオスはゼロ歳で、この世界に産まれた。母親の腹の中は世界以前で、レベーカにとっても世界以前で、しかし、大人たちにとって胎内という概念だった。
・読書
「燃焼のための習作/堀江敏幸」読了。表紙が面白い。なんとなくで見ても面白いし、1,2ページほど読めば何を描いているか判るのも面白い。

 最初の1ページの描写は非常に面白かったのだが、メインとなる会話劇に入った後は読むのがしんどくて、三度ほど、序盤を読み直すことになってしまった。しかし今作の会話劇の正体は何なのかということに当たりを付けられるようになると、けっこうスルスル読める。
 会話劇と書いたが、実際のところ、この作品で繰り広げられているやり取りは、会話というだけでは言葉が足りない。会話のやり取りというよりも、記憶のやり取りと言った方が近い。登場人物たちは会話を通して互いの記憶を共有していく。そこには体感、感覚などが含まれていたり、関係のない出来事が記憶によって繋がるといったことも含まれている。

 会話文にカギカッコが付いていないのも記憶というところにポイントがあるからではないか? 記憶で振り返る過去の出来事は、登場人物の喋りの形ではなく普通の小説の描写のように書かれている。言い換えると登場人物の喋りは紙面に書かれていないのに、記憶は共有される。マンガではしばしば見る方法だ。
 いわば、会話のカギカッコがないのは「台詞が地の文の中に紛れている」のではなく「地の文がセリフとしても作用している」ということだろう。

 会話劇……というか記憶の共有と想起が繰り返されるので、登場人物にとって舞台は大きくふたつに分けることができる。つまり、思いだした記憶と、登場人物たちが現にいる探偵事務所のふたつだ。
 更に読者も記憶のやり取りには、半分だけだが、参加できる。登場人物たちのやり取りから自分の記憶を掘り起こすことは当然可能で、そのように作品へ没入していけば、読者にとっての舞台は四つまで増える。先に挙げたふたつに加えて、読者が本を読んでいるという舞台、それから読者の記憶の舞台だ(読者を巻き込んでいるということと、三人称の文章でありながら登場人物に敬称が付けられることとは、矛盾しない)。
 この「舞台が区分されている」という意識の中で、次のような文章が来るとハッとさせられる。もしくはこの文章によって舞台の意識させられる。

----引用開始----

 水分を摂り過ぎましたと照れ笑いしながら手洗いから出てきた熊埜御堂氏はすぐにソファに座らず窓の外を長め、ずいぶんつづきますね、ふつうの雷雨だったら二時間もすれば終息するものですが、とふたりのほうを振り向き、(以下省略)
(燃焼のための習作/堀江敏幸 152p)

----引用終了----

 前田はここまで読むのに二時間を確実に超えている。また登場人物たちが想起する記憶も二時間を超えているだろう。時間によって舞台が峻別されている……舞台間の違いを時間によって比較することが可能になっている。
 読者を巻き込んだ舞台間の違いが比較可能であるということ……これは、恐らく、フィクションの定義(もしくはリアリティの定義)に関わってくると前田は踏んでいる。
 演劇のことだが、舞台上には「現実」と抽象的な「幻想」が存在しているということに、フィクションを考えるヒントが潜んでいると、前田は思っている。「燃焼のための習作」はその「現実」と「幻想」を扱っているように見えるのだ。
・至言
「1冊読めば、1週間はそれについてあれこれ考えたくなる。」
「一度読んだらストーリィを忘れることはまずない。あるとしたら、本で読んだことか自分の経験だったか、がわからなくなる。」

「小説家という職業/森 博嗣」からの引用。
 氏は「ドグラ・マグラ/夢野久作」を二年かけて読んだ、とも言っていた……。

 一冊の小説をどこまで深く読めばいいか、という話。答えとしては「どこまでも」だろう。保坂和志は「城/フランツ・カフカ」を「まるごと暗記するまで読みたい」とも言っている(これだけだと、単に読む回数が重要かのようだが、実際には違う。カフカの小説ほど全体を憶えにくいものはない。憶えるためにはカフカの小説に深く入り込む必要がある。量の問題ではなく質の問題になる)。
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