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・読書
 読書の感想は小説で書けばいいんだ、と言った直後であるが、普通に感想も書くことにする。小説書くには時間がかかりすぎるからだ。
「MUSIC/古川日出男」読了。同氏の「LOVE」の続編にあたるだろう作品。「LOVE」を知らなくても楽しめるだろうとは思うが、知っていると序盤から早くも震えられる。
 題名の通りなのか、今作の特徴に「非・言語を描写する」ことがあると思う。猫のスタバの思考はその最たるものだ。
 言葉を使った言葉でないものの描写。文学の王道であると思う。
 文体だけみても相変わらず自分の好みで、それどころか過去の作品と比べると一層凄いものになっている気がする。成長? 進化?
 今作の朗読を作者が行っているがどうかはしらないが、読んでいる内に氏の朗読する声がまざまざと想像できた。これがいわゆる文体というものだろうと想像する。今は「百年の孤独/ガルシア=マルケス」を読んでいるが、こちらでは古川朗読を想像できないのだ。
 惜しくらむはあとがきがなかった事か。前作「LOVE」のあとがき、オリエンタのその後が素晴らしかったから、余計にそう思う。
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・読書
「わたくし率イン歯ー、または世界/川上未映子」読了。噂の文学少女(前田が勝手に認定)、川上未映子の短編ふたつ。
 川上未映子の文章は大阪弁らしいけど、前田が想像するような大阪弁とは多少異なっている。一般的に言っても違っているのではなかろうか。
 柴崎友香も大阪弁を使う作家であったと思うが、両者の使う言葉は実際に違っている。川上未映子の文章はこの時点で面白い。読んでいて違和感が、それもポジティブなそれがあり、すらすらとは読めない。変わった言葉が出てくるごとにつっかえてしまう。これが文章の感触を作っているように思える。
 この大阪弁を差し引いても、文章で書くこと(what)が分散していて、これがまた面白い。思考が飛びまくっているといってもいいか。思わず笑ってしまうようなところもあった。
 上記のような複数の文章に渡る面白さだけではなく、単文を抜き出しても、その単文にある文章の感触が面白い。単文で表されようとしていることがその文章の中で変化していっているとでもいうのか。この変化の結果、表現が思いもよらぬ言葉に繋がって、その言葉に新たな様相が加わるという文学の王道の達成。
 
 川上未映子の作品は、エッセイの「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」でも多少思った気がするけど、個人の世界観がくっきりしているせいで人物が孤独に感じる。
「そら頭は~」では作者自身だし、「わたくし率~」は主人公、同時収録の「感じる専門家 採用試験」では登場人物のうちのふたり。
 個人の世界が確かだからこそコミュニケーション不全が発生する?

 今作で触れられていた、「雪国/川端康成」の最初の一文は他の言語に翻訳できないということにすごいものを感じた。有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の文章には主語がないので上手く訳せない、ということ。主語が電車でも雪でもトンネルでもないということ。
 前田は、この文章の主語は「その場」ではないかと予想する。そこの全体ということを明文化せずに、そこの全体を描いているのではないか? 小説という言葉を使う表現でありながら、言葉を使わずに表現しているのではないか?
 ああ、そうか。これが行間というものか。
・読書
「13日間で「名文」が書けるようになる方法/高橋源一郎」を読んでいる。その中の「六日目」について、その内容のまとめと前田の思ったことを。

 社会から外れている人種として「子ども」と「老人」が挙げられる。何故彼らが外れているのかといえば、生産を行わない/行えなくなったからだ。
(資本主義)社会が人間に認める価値というのは「生産性」である。つまり何か金になることを効率的に行える人間の価値は高いと判断される。
 老人はこの価値を失った人たちで、子どもとは価値の評価基準を知らない、または評価に対する意識が非常に低い人たちだ。この意味で老人と子どもは近い。
 言葉というのは社会の中で人とコミュニケートするための道具で、だからここに生産性と効率が求められる。即ち、的確に意味を汲み取ってもらえる言葉こそが社会的な価値を持つ。具体的な個人(またはそれから成る集団)に伝わるよう最適化された言葉といってもいいだろう。例を挙げると、テストに対する解答は、そのテストの解答を知っている人間に対して十分に最適化されていることが望ましい。
 子どもは社会から外れているため、言葉もまた社会的な価値が低くなる。他人とのコミュニケートをする上で最適化されていない非効率的な言葉になる、ということだ。
 最適化とは「特定の相手に伝えるという意識=社会的価値を持とうする意識」から生じる。即ち、特定の相手に伝えるものとして意識されていないから子どもの言葉は最適化がなされないということだ。
 では、子どもは一体誰に向けて言葉を発しているのか?
 答えは自分自身だ。だから大人から聞けば意味が解らない。
 高橋源一郎の息子は、電話口で父と話しているとき、母と電話を交代する際に「じゃあママ・ギーギーゴーゴーに代わるね、ピン・ドン・ガン!」と言っていた(それとも今も言っているのだろうか?)そうだ。「ギーギーゴーゴー」は高橋源一郎のことでは全くない。「ピン・ドン・ガン」もそれ自体に意味はない。ただ彼は自分が楽しいからそれらの言葉を挟むのだという。
 全く非効率的な言葉だが、子ども・老人以外にもこのような言葉が使われる場面がある。それが小説・詩の言葉。つまり文学だ。
 ただし子どもの言葉と文学の言葉には異なる点がある。文学の言葉には、読者という前提があるのだ。
 ただしこれは「読者という集団に最適化されている」という意味合いではない。舞台に立つ役者の台詞のようなものだ。役者は観客に聞かせるために台詞を言うが、それはあたかも観客がいないかのように話される。前田が思うに、文学と演劇の違いは観客の持つフィクションに対する距離感にあるのではなかろうか。
 文学の言葉はやはり多数の人間に聞かれる・読まれることを前提にして書かれる。この意味で子どもの言葉に比べれば最適化されているといえるだろう。
 では文学の言葉よりも最適化されておらず、子どものそれよりも社会的であるような文章とは何か?
 この答えはラブレターだ。
 ラブレターはたったひとりの相手のためだけに書かれる文章である。
 しかしながら、時にはそのラブレターが文学よりも多数の人間の感動を引き起こすこともある。

 さて、以上のことから、文学を書くにあたって何を考えるべきか? 前田は「誰に向けて書くか」という意識だと思う。文学は社会化されていてはならない。社会から完全に断絶されていてもならない。
 文学とは、子どものように全く個人的なことをラブレターの相手に伝えるかのように、観客がいるという前提で書かれるべきなのではないか? これだけでは具体的にどうすればいいのか解らないが、そういうことなのではないか?
・コメント返信
>kisaさん
 なかなか悪くなかったです。感謝。


・読書
「わたしたちに許された特別な時間の終わり/岡田利規」読了。第二回大江健三郎賞。中篇の「三月の5日間」と「わたしの場所の複数」が収録されている。前田は前者の方が面白かった。ので、この記事は「三月の5日間」についてである。
 正直なことを言えば一介の小説家(アマチュアだが)として「やられた」と思った。この時間の過ぎ方、時間への焦点の当て方は最近前田がやろうとしたことで、そしてこちらの方がずっと大胆で、達成されている。時間の過ぎ方というのは「三月の5日間」での「イラク戦争が始まったときにセックスをしている男女」で「時間への焦点の当て方」は、時間軸に沿っていない描写ということだ。前田がやろうとしたことは三年前に通過されていた!(まあ、新しいと思って書いていたわけではないけど)
 この小説についての特徴を挙げるとするならば、前田は「ない」だと思う。
 確か保坂和志の小説論で読んだ言葉に「私たちは生成されようとするものに対する言葉を持っていない」というようなものがあった記憶があるのだが、前田はこれを今作を読んでいるときに感じた。というのも、今作は言葉が足りていない。書きたい対象を書こうとしてその周辺をなぞるような、曖昧な語句を使いまくっている、というか。そう。この「というか」に類する語句がかなり使われている。「あれ」とか「~な感じ」とか。曖昧だ。しかしこれは作者の語彙がないのではなくて、恐らく意図的に、或いは本当にそれを指し示す語彙が存在していないからそうなっているのだろう。そう思う根拠は、「周辺をなぞる」のをしつこく行っているからだ。同じ場所をぐるぐる回っているような描写。これが「ない」のひとつ「語彙のなさ」。
 もうひとつが「単一の主体のなさ」。通常の小説は視点保持者がひとり決まっている。一作品の中で複数の視点保持者がいる場合でも、場面ごとに切り替わる。しかし今作はひとりの視点保持者=単一の主体ではなく、六人の主体やふたりの主体というものも描かれている。「Aがいて、Bがいて……」と主体それぞれではなくて、「『AとB』がいて……」という、ふたりでひとつの主体ということだ。複数人で作られる場とでもいうのか……。これが「ない」のもうひとつ「単一の主体のなさ」。

 ところで「三月の5日間」はもともと戯曲として書かれたそうだ。メディアミックスである。前田はメディアミックスの難易度の高さから、大抵面白くなくなると思っていたのだが、今作は逆の感想を持った。つまり、演劇を小説に押し込めたために「語彙のなさ」「単一の主体のなさ」が生まれたのではないか? そう思うくらい、いびつで、面白い文学だった。
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