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・コメント返信
>kisaさん
 なかなか悪くなかったです。感謝。


・読書
「わたしたちに許された特別な時間の終わり/岡田利規」読了。第二回大江健三郎賞。中篇の「三月の5日間」と「わたしの場所の複数」が収録されている。前田は前者の方が面白かった。ので、この記事は「三月の5日間」についてである。
 正直なことを言えば一介の小説家(アマチュアだが)として「やられた」と思った。この時間の過ぎ方、時間への焦点の当て方は最近前田がやろうとしたことで、そしてこちらの方がずっと大胆で、達成されている。時間の過ぎ方というのは「三月の5日間」での「イラク戦争が始まったときにセックスをしている男女」で「時間への焦点の当て方」は、時間軸に沿っていない描写ということだ。前田がやろうとしたことは三年前に通過されていた!(まあ、新しいと思って書いていたわけではないけど)
 この小説についての特徴を挙げるとするならば、前田は「ない」だと思う。
 確か保坂和志の小説論で読んだ言葉に「私たちは生成されようとするものに対する言葉を持っていない」というようなものがあった記憶があるのだが、前田はこれを今作を読んでいるときに感じた。というのも、今作は言葉が足りていない。書きたい対象を書こうとしてその周辺をなぞるような、曖昧な語句を使いまくっている、というか。そう。この「というか」に類する語句がかなり使われている。「あれ」とか「~な感じ」とか。曖昧だ。しかしこれは作者の語彙がないのではなくて、恐らく意図的に、或いは本当にそれを指し示す語彙が存在していないからそうなっているのだろう。そう思う根拠は、「周辺をなぞる」のをしつこく行っているからだ。同じ場所をぐるぐる回っているような描写。これが「ない」のひとつ「語彙のなさ」。
 もうひとつが「単一の主体のなさ」。通常の小説は視点保持者がひとり決まっている。一作品の中で複数の視点保持者がいる場合でも、場面ごとに切り替わる。しかし今作はひとりの視点保持者=単一の主体ではなく、六人の主体やふたりの主体というものも描かれている。「Aがいて、Bがいて……」と主体それぞれではなくて、「『AとB』がいて……」という、ふたりでひとつの主体ということだ。複数人で作られる場とでもいうのか……。これが「ない」のもうひとつ「単一の主体のなさ」。

 ところで「三月の5日間」はもともと戯曲として書かれたそうだ。メディアミックスである。前田はメディアミックスの難易度の高さから、大抵面白くなくなると思っていたのだが、今作は逆の感想を持った。つまり、演劇を小説に押し込めたために「語彙のなさ」「単一の主体のなさ」が生まれたのではないか? そう思うくらい、いびつで、面白い文学だった。
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