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・読書
「蕭々館日録/久世光彦」読了。ずっと読みたかったがなぜが絶版になっているため入手できず、図書館でちょろちょろ読んでいた作品。作者は既に亡くなっているし、こういうときはamazonの古本に手を出すよ、前田は。

 舞台は昭和だけど、大正ロマンのにおいのする作品。
 言ってみれば久世光彦版吾輩は猫である。視点は猫のものではなく五歳の童女のもので、観察対象は小島政二郎、菊池寛、芥川龍之介、その他、かれらの友人面々というメンツである。
 前田は芥川くらいしかまともに読んだことはないのだが、その芥川の描かれ方が異様にカッコいい。
 人望があり虚弱で彼岸に半分踏み込んでいて、本当に本物の文章を書く美青年。加えて主人公である五歳の童女、麗子が彼を非常に好いている。子供が懐いているというレベルではなくて、女の感情で好いているのだ。なるほど、その感情に値する人間であるなとこちらも思ってしまう。

 その麗子であるが、五歳とは到底思えない知識と知性である。女としての感情もある。異様に大人っぽいのだが、反面、やっぱりちゃんと子供らしくも描かれていた。
 乙一は子供の一人称で作品を書くとき、その子供が実際には使えないような言葉を地の文で使う。これは子供がそんな言葉を使っているということではなく、子供の考えていること(おそらく、非言語的な思考)が別の言葉に言い換えられた結果、地の文になっているという意味だ。
 麗子の場合は乙一とは違っていて、きっと地の文で書かれている言葉で思考している。このふたつの対比はなかなか面白いと思う。
 麗子の大人びた言葉に現実離れした感がないのは、大正-昭和初期という時代設定のためだろうか。

 芥川らの他にも実在した作家が何人か登場し、多少のエピソードや文章も交えて紹介されたりする。文学史を多少知っておくと、けっこうニヤリとできると思う(前田が特に好きだったのは川端康成のエピソードだった)。
 凄かったのが、「谷崎さんならこう書くだろう」といって、眼前の光景を谷崎文体で表現するところ。谷崎だけでなく、泉鏡花や芥川などでも行っていた。横光利一もあったか?
 前田はそうやって模写された文体がそっくりかどうかは分からないが、文体七変化といった趣で面白かった。読む人が読んだら、ちゃんとそれらしくなっているだろうか? きっとなっているだろう。生半可に大文豪の文体模写を試みれるとは思えないからだ。

 話の終わりは、読者が芥川龍之介という名前から想像する通りである。

 久世光彦は他にも内田百閒や江戸川乱歩を登場させている小説を書いているので、そちらも気になるところ。まずは乱歩かな

リンク>amazon「蕭々館日録/久世光彦」

リンク>
amazon「一九三四年冬――乱歩/久世光彦」
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リンク>古川日出男 トーク・朗読・スライドショー『ゼロからはじめる』

 Coyoteという雑誌の企画で古川日出男はメキシコに行った。メキシコというのはつまり、あのガルシア=マルケスが暮らし続けている国だ。古川日出男はそこでひと月過ごし、中編――中編の小説をCoyoteに載せた。
「やあガブリエル、と僕は言った。ゼロからはじめるよ。」
 その小説はそういう名前をしている。

 朗読、トーク、スライドショー。
 場所はスイッチパブリッシングの地下一階。思っていたよりも狭い。思っていたより? つまり前田が想像していた場所より。前田はどこを想像していた? もう忘れた。現実の、あの木目調の、木の椅子が並んだ、本棚にガルシア=マルケスと古川さんが並んだ、知らない本が並んだ一室を前田は訪れてしまったから、そんな想像は忘れた。

 備忘録的に、古川さんが語ったこと、前田が面白いと思ったことについて書いていこうと思う。
 前田は完全なメモを残していない。そして十分な記憶力を有していない。だからここに今から書くことを古川さんが本当に語ったかどうか、これは確かでないし、実際に違っているだろう。前田の憶測や感服がそのまま反映されることとなるはずだ。
 この意味で、フィクションである。


 既に言ったとおり('前田にとっては'書いたとおり)、古川さんはメキシコへ行った。飛行機で十何時間の旅。メキシコ滞在中の出来事等については先に挙げた「やあガブリエル~」に書かれている。
 メキシコ旅行自体は、いわゆる取材旅行という範疇に入る。
 しかしプランは立たない。立てようとしない。メキシコに行く、だからドコソコを見に行こうというのでは、追体験してしまうことになる。
 つまり、予め計画を立てて、パンフなどを眺めて「○○が面白そうだ」と期待を巡らせる。それから、実際を観光する。
 計画の段階で生じた期待を実際の体験がなぞることになる……実際に体験してもいないことを、追体験することになる。氏はこれを嫌っているようだった。
 なにも旅に限ったことではないのではないかと思う。小説を読んで小説の感想を書くその時にも、妙な追体験を行っていないか? 本当にその感想はその小説を読むことによって生じたものなのか? 後付けの可能性は? 感想を書く、評論を書く中で生じてしまったものは、ないか? それはまさに、実際に体験してもいないことを追体験しているに過ぎないのではないか?


 カメラのこと。
 古川さんはメキシコにて初めてカメラというものを使った。そこで体得した使い方について。
 目は人間の頭部にふたつ付いている。ここ以外の場所には付いていない。しかしカメラは、自由に設置できる。手で持ち、自由な位置から自由な角度に。目は必ずしもファインダを覗いている必要はない。
 前田も同じ使い方をしていたので、妙にうれしかった。これは自慢だ。



 この使い方から先の話もある。
 古川さんの撮った写真、これを見た人がこういう感想を持った。
「古川さんの文章、そのまんまだよね」
 小説を書くためには肉体が必要である。単純にペンを持つ・走らせる、キーボードを叩くために肉体が必要という意味合いではもちろんない。
 例えば小説を読むとき読者は、全ての文章ではないかもしれないにせよ、頭の中で音読する。人物次第で、その声が変わったりもする。
 書くという立場でいうならば、その語り手がどのように呼吸しているのか、どのように言葉を使っているのかということにまで意識を伸ばすということ。五感を使って語り手の肉体を手に入れようとすること。だから執筆には肉体が必要だ(小説を作ることの難しさのひとつでもある)。
 古川さんは肉体を駆使して文章を書いている。先の感想は、カメラを撮るときにも肉体が使われたことを意味している。
 カメラに五感を投げ出してカメラを第六感にする、ということ。

 小説を作ることの難しさについても話があった。
 小説の創作には3つのフェイズに分けられる。
 まず構想。全体の話があって、どんなシーンがあって、こんなラストになって……という構想。
 次に調査。例えば第一次世界大戦の小説を書こうとすれば、当然、資料から知識を入れる必要がある。しかし既に構想はある……事実は作家の構想のために存在しているはずがないから、資料を調べれば調べるほど、構想からズレていく。しかし同時に、構想を補強するような情報もある。
 最後に執筆。肉体を駆使するフェイズだ。構想もあって調査もある程度できていて……それらを前提とした上で、語り手の、登場人物たちの、個人的な肉体を手に入れなければならない。
 以上の3つのフェイズはそれぞれ全く違った作業になる。
 構想は頭の作業で、小説を外側から見るような作業だ。ただし自分のみが考えるところでもある。
 調査は、構想という自分の頭に外部から圧力をかける作業になる。上手く合致しない部分があり、妙に一致してしまう部分がある。ここもまた小説を外から見ている状態だろう。
 執筆は上のふたつとは更に違う。小説の内側だ。構想・調査に従って、自身の肉体を使って、書く。場面を書いたら、再び構想に戻ることになる。物語だから、次のエピソードがある。そこへ移らなければならない。再び小説の外側だ……。



 前田はトークのメモを取った。だから、氏が話した何を前田は面白いと思ったか、これをなぞることは可能だ。
 メモを元にここまで書いてこれたが、全体として、なにか、違っている。
 まとまった文章、流れのある文章になっていないのでは? AであるからBであり従ってCという結論になる――こういう論理的な文章になっていないのでは? そうかもしれない。だがそれ以上に、違っている、という感じがする。当たり前だ。前田に古川さんの語りを再現することはできない。順に記憶もしていない。語りの中にあった論理性も。散らばった記憶と説得力だけで、前田は今、書いている。支離滅裂? かもしれない。


 トークの中にあった情報量はきっと膨大だ。
 トークだけじゃない。朗読もやった。それは「やあガブリエル~」の、古川さん自身の朗読だった。イベントの終わりに前田はこういう質問をしている。「朗読の難しさって、何ですか?」
 古川さんから「スイッチを入れるのが難しい。人物を自分に憑依させるのが。いってみれば、イタコのようなもの」という旨の回答。
 再度、前田の質問。「じゃあ、自身の作品と他の人の作品を朗読するのでは、そんなに変わらないのですか?」
 古川さんから「いや、他の人の作品の方が楽(簡単、だったかもしれない。前田は忘れている。メモにも、ない)。特に「やあガブリエル~」は古川さんが語り手になるから、それを憑依させるために自分を殺して、けどそこに憑依するのは古川さんっていう、ワケのわからないことになるから」という旨の回答。
 イベントの途中に戻る。
 スライドショーも観た。メキシコで撮った写真だ。花が写っている。神の像が写っている。犬が写っている。
 神の像のところで、古川さんがスタッフに言ったことが面白かった。
「ちょっと、神、スライドいいっすか」
 全く文脈を無視してしまうと、この一文は簡単に誤解されるだろう。誤解された先が非常に面白いと思う。だから前田は古川さんの言葉をそのままメモに書き取った。この台詞は、事実だ。ただし古川さんがこの台詞を同じ言葉で書くと別の文章になるかもしれない。句読点、漢字の開きが変わる可能性があるからだ。ここにも肉体の反映がある。
 朗読、二回目。今度は「百年の孤独」。あの。ガルシア=マルケスの。
 前田は百年の孤独を読み、古川さんの朗読でその文章を読み上げることができなかった。しかし古川さんは百年の孤独を、ガルシア=マルケスを朗読する。できる。前田の知っている言葉だが、しかし抑揚、声、雰囲気は、前田の知らないものになる。知らない百年の孤独。
 途中から、朗読CDもかかった。恐らくは、原文での。ガルシア=マルケス自身による。コラボになる。

 以上が朗読での出来事。質問の時間も少しばかり先取りしている。


 古川さんはメキシコの面白さについて語る。日本との違いだ。
 美醜の基準が違う。
 メキシコの女の子は、セニョリータは、かわいくない。例えば向こうでは腹が出ているのが良いとされている……日本とは違う。メキシコに降り立ったばかりの古川さんは、メキシコの女の子をかわいくないと感じている。
 しかししばらくメキシコに滞在して、メキシコを体感していくと、やがて感覚が変わってきた。セニョリータがかわいい、そう思うようになっている。
 メキシコから日本に帰る。成田から電車に乗り……今度は日本の女の子がかわいくない。みんな人工的だ。かわいくない。
 美の基準は時代・土地によって変わるものだ。そういう知識を我々は持っている。持ってはいるが、体験することは少ないだろう。浮世絵の美人画を美人とは感じられない(美術として美しいと思うことはあるだろうが)。
 メキシコという土地を体感し、五感で触れることで美醜の基準さえ変わる。ここにも肉体がある。メキシコの感覚を丸呑するための肉体で、丸呑した肉体だ。またキーワードだ。美醜の基準、特に異性に対する美醜の基準というのは本能に根ざす。男にとって美人の女とは、突き詰めれば子供を成したい相手でもある。その遺伝子を残したいという生物の本能がある。美醜の基準とは、それだ。それが変わっている……。
 美醜を例として、二項対立のことにも話は移る。
 肉体によって美醜の基準が変化する、価値観がフレキシブルなものとなるように、様々な二項対立的分類はフレキシブルで、混ざり得る。
 先に書いた、神像のこと。
 メキシコはキリスト教だ。一神教だ。しかし町中に様々な神が祀られている。神が散乱しているのだ。そもそもマリアやキリストなどは、神ではない。神ではないが、まるで神であるかのような扱いになっている。三位一体……神もキリストも精霊も全てひとつ……しかし神とキリストと精霊じゃあないか。ひとつじゃないじゃないか。いや、けどひとつなのだ。神と神でないものという二項対立は、どこへいった?
 例えば西洋の風景画。
 風景画なのだから、実在する……具体的なものが描かれていく(時代的な作品群の変遷か、あるいはひとつの作品の作成プロセスの話か……それはどちらでもいいだろう)。しかしキリスト教の文化圏にあって、宗教的なものが風景画の中に現れ始める。そんなものはここにいないだろう? そういう現象なり、きっと天使なりが描かれていく。そうやって出来上がったものは、なんだ? 具象か? 抽象か? これは具象か抽象かではなく、具象であり抽象という……二項対立の消滅だ。具象をつきつめて抽象が入り込んで二項対立が混ざる。フレキシブルさ。
 そもそもメキシコ自体、価値観がフレキシブルな国のようだった。日本と違った多人種国家ということもあるだろうが……。だから古川さんは反発せずにその価値観を飲み込めたというようなことも話していた。硬直しない価値観。
 日本でタブーになっている物乞いはいる。
 さて、乞われたとき、何かを渡すか? 日本では行われない判断がメキシコでは行われる。先々で。その機会がある。日本ならば? 日本には機会がない。「ここでモノを与えるか?」これを判断する、その場の自分に従うという機会が。古川さんの言葉でいう、ジャッジが、ない。
 メキシコでは、自由だ。与えても、与えなくても。硬直していない価値観の一端。

 古川さんにこんな質問が飛んだ。
「作品の文章にスピード感がある。書いているときにも、書くリズムの速さとか遅さがあるのか?」
 答え。「8割はない。ずっと苦しんでいる。2割は、そういうのもある」
 ある詩人の話になった。
 4000字なら4000字、休まずに一気に書かなければならないような文章が存在する。途中で書くのを休んでしまったら、また最初からやり直すはめになるような文章が。


 会場は本屋にもなっていた。古川日出男の作品が並び、ガルシア=マルケスの作品が並び、そして古川日出男とCoyote編集部が選出した、「メキシコ」「歩く」「ラテンアメリカ」をテーマとした小説群がある。
 その中にフアン・ルルフォがある。
 絶版だったが、最近復刊された、あの「ペドロ・パラモ」がいる。「火山の下」? マルカム・ライリー? 前田はその名前を知らない。買う。Coyoteのバックナンバも置かれていた。古川日出男の、舞台のための作品、「ブ、ブルー」の収録された。
 トークと朗読とスライドが終わり、前田は「ブ、ブルー」のCoyoteにサインをもらう。自分の漢字を間違われてしまったが、むしろ嬉しさがある。自分のペンネームが、その間違った字になることを想像してしまう。ホンモノを相手に前田は大言壮語を吐く。

 全部終わって夜九時。前田の身体は震えている。渋谷駅へ向かう。途中でラーメンを一杯。まだ震えている。それどころか泣きそうになる。渋谷駅から山手線に乗る。車中で漱石の文学論を読もうとする……全く頭に入ってこない。読むのをやめる。まだ震えていて、泣きそうにもなっている。感動には違いないだろうと思った。

 最近気になっている人のブログにも、同じことに対する記事がある。
リンク>Spiral Fiction Notes『ゼロからはじめる』
・読書
「坊ちゃん/夏目漱石」読了。青空文庫のやつをiPhoneのSkyBookにて。レスポンスの遅さが難点ではあるけど、大辞林を導入しているので便利なこともある。レスポンスは遅いけど。
 今作は中学生の頃に読んだのだが、内容はすっかり忘れてしまっていた。有名すぎる「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」の文章とか、その後の無鉄砲のエピソードくらいは覚えていたが。

 そして、なんだこの面白さは……。
「吾輩は猫である」の文章はもっと読みにくかったのだが、今作はそういう印象がない。むしろ読みやすい。
 平常は、光景・風景の描写をあんまり行わないような、あっさりとした文章。稀に風景描写が入り込むが、これがホントに唸らされる、見事な文章だったりする。しかも短く、簡潔だ。
 能ある鷹は爪を隠すではないが、平常の文章に、レベルの高さが明らかな文章を放り込まれると、漱石の筆力の高さに感服してしまう。

 気になったのは人物の描き方だ。山嵐、赤シャツ、野だなど、登場してアダ名がついた時点で、早くも存在感があるように思えた。ストーリーとも違わない第一印象であって「展開が分かるからこそ面白い」というストーリー観を再確認させられた。

 最後の一文といい、物語というのはエピソードの連なりから成っているものなのだということを再認識させてくれる作品。
 小説のお手本というならば、まさに素晴らしいお手本だと思った。言葉の賞味期限も感じなかったし。

 あと、騒動の結末から「外からの視点」について考えるきっかけが得られるように思う。保坂和志が言っている、例えばカフカの作品に見られるような「外からの視点のなさ」についてだ。

リンク>青空文庫「坊ちゃん/夏目漱石」
・読書(引用あり)
「エレンディラ/G・Garcia=Marquez」読了。短編集。ちくま文庫で、訳は鼓直と木村榮一。
「百年の孤独」に引き続きガルシア=マルケス。この短編の執筆された時期も、百年の孤独の直後であるようだ。
 困ったことに「百年の孤独」と殆ど同じ読み方をしてしまった。短編であるから人物を思い出すとか、人物の厚みを作っていくとかそういうことはなかったけど、説得力に対する面白さばかりで読んでしまったということ。
 この意味で、前田は「この世でいちばん美しい水死人」が最も好きだ。
 例えば、こういう描写。

----引用開始----
巨大な体躯の美しい水死人に心を奪われた女たちは、少しでも立派に見えるようにと縦帆の布と新婦の衣装に用いる麻布でズボンとワイシャツを縫ってやることにした。(中略)これほど立派な男ならきっと魚を呼び集めてやすやすと漁をするだろうし、荒れ果てた岩地に水の湧き出る泉を掘り、花の種を撒いて絶壁をお花畑に変えてしまうにちがいない。(中略)
「顔を見ると、エステーバンという名前じゃないかって気がするね」
----引用終了----

「この世で~」はこういう説得力のみで作られた小説のように読めて、それが面白い。

 'のみで'などと書いてしまったが、実際にこの作品が本当に説得力のみで作られた作品なのかどうかは確信がない。

 テーマを読み取ることを無視して、その作品固有の面白さ、その作品によって動かされる自身の感覚を掴むという読み方は大切だし歓迎されるべきものだと思うけど、小説の読みというのはそれだけでないことは確かだ。
 とある評論家の教授に「作品を読むとき、どのように読んでいるのですか?」という旨の質問をしたことがある。これに対する返答は「作品の要求している読み方で読む」だった。本来小説というものは(フィクションと言い換えても良いと思うが)読み方すら作品に依存する。
 自分の読み方を確立させるというと聞こえは良いけど、実際にはただ視点が狭まっているだけというのはよくある話。第一、その固まっているという精神自体が文学らしくないのでは?
・読書(引用あり)
「百年の孤独/G・Garcia=Marquez」読了。新潮社のやつ。訳は鼓直。保坂和志の小説論を読み始めたころから読みたくなっていて、けれどなかなか読めなかった作品。
 ガルシア=マルケスがノーベル賞を取った当時、祖国のコロンビアではソーセージ並みに売れたという噂を前田は信じている。

 マコンドという架空の街に暮らしているブエンディア家の歴史、というべき内容。最初のひとりがいて、そこから子どもたちが生まれて、その子どもたちがまた子どもを産んで……そうして生まれてきた人たちの人生。
 当然登場人物も多いわけで(特にブエンディア家の人間が。結局、何人出てきたんだろうか)、しかも困ったことにブエンディア家の人間は名前がかぶりまくる。ちょっと挙げてみると、
「ホセ・アルカディオ・ブエンディア」「アウレリャノ」「ホセ・アルカディオ」「アウレリャノ・セグンド」「ホセ・アルカディオ・セグンド」「アウレリャノ・ホセ」「アウレリャノ」
 全部別人である。世代が違って同じ名前の人物も出てくるから登場人物が錯綜する。
 そうでなくてもほんのちょっとだけ登場して、後からまた登場するような人物もいるし、読んでいる途中に「こいつ誰だっけ?」となることも多い。そうなったらページを戻ってその人物を探したりすることになる。
 こういう「戻り」は作品に対してマイナスの評価となるのだろうけど、今作の場合はむしろ面白さとして作用するようだ。この面白さの捉え方は保坂和志の受け売りだけど、読んでみると分かる気がした。
 つまり、読み返すことによって人物を思い出すということ、その人物の行動を思い出して「ああ、あいつか」と思うということ、それらがブエンディア家の歴史の厚みを読者の中に作る。一読目で全部憶えておくのではなくて、あとでページを捲って探して思い出すという動作を伴うことが、その厚みにとって大切だということじゃないだろうか。

 確実に二読目の印象が変わるだろう作品であり、二読する価値が十二分にある。二読目は家系図を書いたり登場人物の相関図を書いたりしながら読んでいこうかと思う。
soledad

 人物を思い出すとは何かというと、当然その人物のエピソードを思い出すということだけど、読んでいてやっぱり面白いのが、その個々のエピソードだ。
 いわゆるマジックリアリズムという手法らしいが、出来事がいちいち非常識だ。比喩と解釈できる描写があったりするけど、それは解釈できるというだけで、実際には比喩でなくそういうことが起きている。

----引用開始----
 その日の午後に兵隊たちは町を去った。数日後に、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは町長一家のために家を見つけてやった。これで世間は落ち着いた。ところが、アウレリャノだけは別だった。自分の子供だと言ってもおかしくない町長の末娘のレメディオスのおもかげが心に焼きついて、彼を苦しめたのだ。その苦痛はほとんど肉体的なもので、靴にはいった小石ではないが、歩くのに差しつかえた。
----引用終了----

 出来事は非常識なのだが、そこには何故か説得力がある。前田が最も好きなエピソードは小町娘のレメディオスの、文字通りの"昇天"だ(ちなみに先の引用に出てくるレメディオスと小町娘のレメディオスは別人である)。
 この説得力が前田にとっての「百年の孤独」の面白さとして重要だと思うが、じゃあどこからその説得力がくるか、これはまだ分からない。

 今作には長い年数をかけて継続していくエピソードはあまりない。
 作品の最後の締めとなるエピソードはこのあまりない、継続されてきたエピソードだった。それだけに、ページの残り少なさと相まってそのエピソードに決着がつくということが匂わされると、急に時間を感じさせられた。つまり、百年がもうすぐ経とうとしている、という印象である。
 決してスラスラとは読めない長編を前田は何冊か読んだことがあるが、このような印象を受けた小説というのは初めてだった。

 
「百年の孤独」のような(前田主観の)伝説的な長編を一作読めたとなると、例えば「フィネガンズ・ウェイク」や「重力の虹」といったところにも挑戦したくなる。「死霊」も前田の中では伝説化している。


リンク>Amazon「百年の孤独」
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