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・読書(引用あり)
「百年の孤独/G・Garcia=Marquez」読了。新潮社のやつ。訳は鼓直。保坂和志の小説論を読み始めたころから読みたくなっていて、けれどなかなか読めなかった作品。
 ガルシア=マルケスがノーベル賞を取った当時、祖国のコロンビアではソーセージ並みに売れたという噂を前田は信じている。

 マコンドという架空の街に暮らしているブエンディア家の歴史、というべき内容。最初のひとりがいて、そこから子どもたちが生まれて、その子どもたちがまた子どもを産んで……そうして生まれてきた人たちの人生。
 当然登場人物も多いわけで(特にブエンディア家の人間が。結局、何人出てきたんだろうか)、しかも困ったことにブエンディア家の人間は名前がかぶりまくる。ちょっと挙げてみると、
「ホセ・アルカディオ・ブエンディア」「アウレリャノ」「ホセ・アルカディオ」「アウレリャノ・セグンド」「ホセ・アルカディオ・セグンド」「アウレリャノ・ホセ」「アウレリャノ」
 全部別人である。世代が違って同じ名前の人物も出てくるから登場人物が錯綜する。
 そうでなくてもほんのちょっとだけ登場して、後からまた登場するような人物もいるし、読んでいる途中に「こいつ誰だっけ?」となることも多い。そうなったらページを戻ってその人物を探したりすることになる。
 こういう「戻り」は作品に対してマイナスの評価となるのだろうけど、今作の場合はむしろ面白さとして作用するようだ。この面白さの捉え方は保坂和志の受け売りだけど、読んでみると分かる気がした。
 つまり、読み返すことによって人物を思い出すということ、その人物の行動を思い出して「ああ、あいつか」と思うということ、それらがブエンディア家の歴史の厚みを読者の中に作る。一読目で全部憶えておくのではなくて、あとでページを捲って探して思い出すという動作を伴うことが、その厚みにとって大切だということじゃないだろうか。

 確実に二読目の印象が変わるだろう作品であり、二読する価値が十二分にある。二読目は家系図を書いたり登場人物の相関図を書いたりしながら読んでいこうかと思う。
soledad

 人物を思い出すとは何かというと、当然その人物のエピソードを思い出すということだけど、読んでいてやっぱり面白いのが、その個々のエピソードだ。
 いわゆるマジックリアリズムという手法らしいが、出来事がいちいち非常識だ。比喩と解釈できる描写があったりするけど、それは解釈できるというだけで、実際には比喩でなくそういうことが起きている。

----引用開始----
 その日の午後に兵隊たちは町を去った。数日後に、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは町長一家のために家を見つけてやった。これで世間は落ち着いた。ところが、アウレリャノだけは別だった。自分の子供だと言ってもおかしくない町長の末娘のレメディオスのおもかげが心に焼きついて、彼を苦しめたのだ。その苦痛はほとんど肉体的なもので、靴にはいった小石ではないが、歩くのに差しつかえた。
----引用終了----

 出来事は非常識なのだが、そこには何故か説得力がある。前田が最も好きなエピソードは小町娘のレメディオスの、文字通りの"昇天"だ(ちなみに先の引用に出てくるレメディオスと小町娘のレメディオスは別人である)。
 この説得力が前田にとっての「百年の孤独」の面白さとして重要だと思うが、じゃあどこからその説得力がくるか、これはまだ分からない。

 今作には長い年数をかけて継続していくエピソードはあまりない。
 作品の最後の締めとなるエピソードはこのあまりない、継続されてきたエピソードだった。それだけに、ページの残り少なさと相まってそのエピソードに決着がつくということが匂わされると、急に時間を感じさせられた。つまり、百年がもうすぐ経とうとしている、という印象である。
 決してスラスラとは読めない長編を前田は何冊か読んだことがあるが、このような印象を受けた小説というのは初めてだった。

 
「百年の孤独」のような(前田主観の)伝説的な長編を一作読めたとなると、例えば「フィネガンズ・ウェイク」や「重力の虹」といったところにも挑戦したくなる。「死霊」も前田の中では伝説化している。


リンク>Amazon「百年の孤独」
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