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・映画のこと
 とある自主制作映画団体の撮影に参加した。手伝いおよびちょっとだけ出演。
 多人数でひとつのフィクションを作ったり、映像表現を作ったりしたことがなかったので、なかなか新鮮な体験だった。

 多人数で作るというのは、これはもう明確に小説とは違っている……と思ったが、違わない点もある。
 全体の統括や撮影したシーンの出来不出来を、監督がひとりで決定するという点は小説と同じだ(一般的に監督ひとりだけの判断でOKが出るかどうかは知らない。今回の前田の体験に基づいた話である)。
 シーンを実際に創り上げているのは役者やカメラマンなどのスタッフであり、監督自身ではない。監督は指示を出せるが、スタッフは監督の意図に完全に忠実な動きをしないし、出来上がる映像もまた監督の意図に完全には合致しないだろう(これを完全にやってしまうのが、良い監督であり良いスタッフである気がする)。
 つまり監督は映画を全て制御できず、意図されていなかった何かが映画の中に表現されることになる……と思う。
 この作品観は小説にもある。
 作家はひとりで小説を書くし、頭の中にある文章を実際に書いていく。しかし作家は文章それ自体を表現したいのではなく、文章によって"何がしか"を表現したい。少なくとも、前田はそうだ(ここで"何がしか"というのはいわゆる小説のテーマとは限らないし、「登場人物の悲しみ」といった別の語句で表現できるようなものとも限らない)。
 だから作家は文章について試行錯誤し、最終的に出力された文章も作家の意図になかったものを表現し得る。映画と同様だ。
 意図せずに表現されたものを察知し、作品全体へ反映させるのが良い作家・良い監督だろうと前田は予想している。

 映画と小説の違う点としては、製作途上に自分以外がいるかいないかということが挙げられる。
 小説の文章を書いている横で誰かが見ているということはない(それともプロの場合は缶詰になると横から編集者に見られるのだろうか? 想像しがたいな)。
 映画は常にスタッフがいる。監督以外が製作途上で作品を見ている。
 岡目八目という意味合いも含んではいるのだが、自分でない目、もしかしたら観客かもしれない目が常に作品を見ているというのは、非常に良い。
 その目に意見を求めることも可能だし、意見が得られないとしても、見られているという事実は自作に対する反省の視線を監督に生むのではないだろうか。
 つまり、目を意識すると生半可なものは作れなくなる。"何となく"でシーンを撮れなくなる。
 製作自体はとても難しくはなるが、クオリティは上がるはずだ。考えを煮詰めるのに一役買うわけである(考えが煮詰まる、というのは袋小路に陥るようでマイナスの印象を持たれるが、徹底的に考える=完成へと近づくという意味でもある)。

 もうひとつ、小説と映画の共通点。風景を使うが、自然の風景"そのまま"を使うとは限らないという点。
 映画では光の具合などを調節しないとならない。小説では登場人物の目を通す。いずれも生の風景ではなくなっている。
 ……と、簡単に書いてしまったが小説における風景の問題は(そして映画における風景の問題も)簡単に片付かない。この辺りの話は「小説の自由/保坂和志」の「私の濃度」で触れられている。

リンク>Amazon「小説の自由/保坂和志」
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