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・比喩可能な音楽の例
 今更、というほど遅くもないが「Revolutionary/9mm Parabellum Bullet」を聞く。
 前田は9mmに対して激しい音楽をやるというイメージを持っていたが、本アルバムに収録されている曲は結構幅がある気がした。激しいのから穏やかなものまで。
 今までのアルバムもそうだったのかもしれないが、少なくとも今回は幅広さが印象に残る。
 あと、シャウトという観点で「凛として時雨」と比較すると面白い。時雨のシャウトは高音で、長く、響く。9mmのシャウトは低音で、短く、破裂する。
 このふたつのバンドが「刀(またはナイフ)と銃」という比喩で比較されるのも納得。

リンク>9mm Parabellum Bullet official MySpace
リンク>凛として時雨 official MySpace


・場
 割と前に映画「マッハ!弐」を観た。アクション映画である。前作の「マッハ!」のアクションが気に入っていたので、今作も観てみようと思った次第。
 率直に言ってつまらなかった。理由はアクションが行われる状況にある。
 前作「マッハ!」はアクションシーンに至るまでのストーリーがあり、そのアクションが行われる理由が明確にあった。
 例えば「大量のチンピラに目を付けられ」て「逃げる」というアクションシーンが展開される、などだ。逃げなければならないという状況があるからこそ、逃げるというアクションになる。
 観客はこの明確さがあるから、素直にアクションシーンを楽しめるのではなかろうか?
 今作「マッハ!弐」にはこれがない。いきなり「アクションが行われるべき場」になるため、そのアクションになる理由が分からず呆然となってしまう。ただアクションそのものの出来栄えを観るしかなくなってしまう。前田が今作を「主演のPVだ」と評する理由だ。

 前田は以前まで「アクション映画はまずアクションそのもの有りきで、アクションが素晴らしければつまらなくなることはないだろう」と思っていたが、この考えは間違いな気がしてきた。
 きっとアクションという楽しみの核を楽しむためには、その状況、場という土台が必要なのである。
 核と土台という考えは恐らくアクション映画に限らず、全てのフィクションに適応できるのではないだろうか?
 重要なのは、面白さだけでは作品が成立しないという意識ではないか?
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