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・読書(引用あり)
「エレンディラ/G・Garcia=Marquez」読了。短編集。ちくま文庫で、訳は鼓直と木村榮一。
「百年の孤独」に引き続きガルシア=マルケス。この短編の執筆された時期も、百年の孤独の直後であるようだ。
 困ったことに「百年の孤独」と殆ど同じ読み方をしてしまった。短編であるから人物を思い出すとか、人物の厚みを作っていくとかそういうことはなかったけど、説得力に対する面白さばかりで読んでしまったということ。
 この意味で、前田は「この世でいちばん美しい水死人」が最も好きだ。
 例えば、こういう描写。

----引用開始----
巨大な体躯の美しい水死人に心を奪われた女たちは、少しでも立派に見えるようにと縦帆の布と新婦の衣装に用いる麻布でズボンとワイシャツを縫ってやることにした。(中略)これほど立派な男ならきっと魚を呼び集めてやすやすと漁をするだろうし、荒れ果てた岩地に水の湧き出る泉を掘り、花の種を撒いて絶壁をお花畑に変えてしまうにちがいない。(中略)
「顔を見ると、エステーバンという名前じゃないかって気がするね」
----引用終了----

「この世で~」はこういう説得力のみで作られた小説のように読めて、それが面白い。

 'のみで'などと書いてしまったが、実際にこの作品が本当に説得力のみで作られた作品なのかどうかは確信がない。

 テーマを読み取ることを無視して、その作品固有の面白さ、その作品によって動かされる自身の感覚を掴むという読み方は大切だし歓迎されるべきものだと思うけど、小説の読みというのはそれだけでないことは確かだ。
 とある評論家の教授に「作品を読むとき、どのように読んでいるのですか?」という旨の質問をしたことがある。これに対する返答は「作品の要求している読み方で読む」だった。本来小説というものは(フィクションと言い換えても良いと思うが)読み方すら作品に依存する。
 自分の読み方を確立させるというと聞こえは良いけど、実際にはただ視点が狭まっているだけというのはよくある話。第一、その固まっているという精神自体が文学らしくないのでは?
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