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・読書
「燃焼のための習作/堀江敏幸」読了。表紙が面白い。なんとなくで見ても面白いし、1,2ページほど読めば何を描いているか判るのも面白い。

 最初の1ページの描写は非常に面白かったのだが、メインとなる会話劇に入った後は読むのがしんどくて、三度ほど、序盤を読み直すことになってしまった。しかし今作の会話劇の正体は何なのかということに当たりを付けられるようになると、けっこうスルスル読める。
 会話劇と書いたが、実際のところ、この作品で繰り広げられているやり取りは、会話というだけでは言葉が足りない。会話のやり取りというよりも、記憶のやり取りと言った方が近い。登場人物たちは会話を通して互いの記憶を共有していく。そこには体感、感覚などが含まれていたり、関係のない出来事が記憶によって繋がるといったことも含まれている。

 会話文にカギカッコが付いていないのも記憶というところにポイントがあるからではないか? 記憶で振り返る過去の出来事は、登場人物の喋りの形ではなく普通の小説の描写のように書かれている。言い換えると登場人物の喋りは紙面に書かれていないのに、記憶は共有される。マンガではしばしば見る方法だ。
 いわば、会話のカギカッコがないのは「台詞が地の文の中に紛れている」のではなく「地の文がセリフとしても作用している」ということだろう。

 会話劇……というか記憶の共有と想起が繰り返されるので、登場人物にとって舞台は大きくふたつに分けることができる。つまり、思いだした記憶と、登場人物たちが現にいる探偵事務所のふたつだ。
 更に読者も記憶のやり取りには、半分だけだが、参加できる。登場人物たちのやり取りから自分の記憶を掘り起こすことは当然可能で、そのように作品へ没入していけば、読者にとっての舞台は四つまで増える。先に挙げたふたつに加えて、読者が本を読んでいるという舞台、それから読者の記憶の舞台だ(読者を巻き込んでいるということと、三人称の文章でありながら登場人物に敬称が付けられることとは、矛盾しない)。
 この「舞台が区分されている」という意識の中で、次のような文章が来るとハッとさせられる。もしくはこの文章によって舞台の意識させられる。

----引用開始----

 水分を摂り過ぎましたと照れ笑いしながら手洗いから出てきた熊埜御堂氏はすぐにソファに座らず窓の外を長め、ずいぶんつづきますね、ふつうの雷雨だったら二時間もすれば終息するものですが、とふたりのほうを振り向き、(以下省略)
(燃焼のための習作/堀江敏幸 152p)

----引用終了----

 前田はここまで読むのに二時間を確実に超えている。また登場人物たちが想起する記憶も二時間を超えているだろう。時間によって舞台が峻別されている……舞台間の違いを時間によって比較することが可能になっている。
 読者を巻き込んだ舞台間の違いが比較可能であるということ……これは、恐らく、フィクションの定義(もしくはリアリティの定義)に関わってくると前田は踏んでいる。
 演劇のことだが、舞台上には「現実」と抽象的な「幻想」が存在しているということに、フィクションを考えるヒントが潜んでいると、前田は思っている。「燃焼のための習作」はその「現実」と「幻想」を扱っているように見えるのだ。
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