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・比喩の結びつけ(1)


 比喩の「結びつける」という特徴について。

「あの人がゴキブリを見る眼はまるで、宇宙を飛び交う電磁波のようだ」
「あの人がゴキブリを見る眼はまるで、ネコのようだ」

 後者の文章は「あの人の眼」の説明としてしか機能していない……のだろうか? 読み方……というか、読者の文章の捉え方というか、それによっては「ネコ」という部分で、あの細められた瞳孔が浮かんでくるだろうし、ネコに詳しく愛着を持っている読者だったらネコの様々な生態というか魅力が浮かんでくるのではないか。この場合、比喩は説明でなく描写としての機能を備えるのではないか?
「しかし、ネコに愛着を持っているとか、実際にネコの眼を思い浮かべるとかは読者の文章の捉え方の問題なのだから、小説側ではどうしようもないのではないか?」この疑問に対してはノーと答えることができるだろう。小説は文章を幾つも積み重ねることができるからだ。この比喩に至るまでの過程で、作者の狙う読みを提示できていれば、読者の捉え方を操れるはず……。
 この場合、比喩は描写の簡略化という役割を果たす……かと思ったが、やっぱりそれだけではない。ネコという言葉を使わずに「あの人の眼」の細められる瞳孔などを描写するのではネコとの結びつきが変わってくる……と、これも本当か? さっき書いたように、比喩に至るまでの過程の工夫によって、細められる瞳孔からネコを想起させるようにすることは可能なはず。小説の文章として「ネコのようだ」と書くのではなく読者の感想として「ネコのようだ」と思わせる、ということだ。ならば「ネコのようだ」とするのも、細められる瞳孔を描くのも、結果として「あの人の眼-ネコ-細められる瞳孔」という関連を作ることになる……。
 こうなると、比喩というのはやっぱりひとつの技術というか、手段にしか過ぎないというのがよく解る。読者にとっては比喩を使われた方が分かりやすいし、作者にとっては描写の簡略化というメリットはあるにせよ。
 なのでやっぱり考えるべきは「言葉を結びつける」ということに行き着く。「宇宙を飛び交う電磁波」と「ネコ」の差が出てくるのは、ここに入ってからだ。
 で、言葉を結びつけることで何が起きるのか?
「言葉・狂気・エロス/丸山圭三郎」の第四章の2「メタファーとメトニミー」から引用。

----引用開始----

 詩人たちの営為は、関係が物化して私たちを支配し操作する日常の表層世界、一義化され極度に合理化されている制度、画一化された価値観、等々を否定する実践であり、本書の第七章でも改めて詳述することになる<異化>という芸術手法、すなわち私たちの無自覚的、惰性的生活において信号の様相を呈している言語によって、心身が自動機制化され条件反射の道具に成り下がっている人間を、蘇らせる試みとも言えよう。
 これはまた(中略)言葉を<ナンセンス化>することでもある。<ナンセンス化>には大別して次の二つの極がある。

 多義性の回復
 一つは表層意識において一義化している言葉に多義性を回復させ、やせ細った機能としてのデノテーション(外示=辞書の定義のような最大公約数的意味)に本来の情動的コノテーション(含意=複数で身体的な一回性をもつ意味)を取り戻させることでもある。
 その手法としては洋の東西を問わずメタファー(隠喩)、メトニミー(換喩)、シネクドック(提喩)を挙げることができるだろう。

(言葉・狂気・エロス/丸山圭三郎 104~105p ルビは引用者削除)
----引用終了----

 この後にはメタファーとメトニミーの説明、日本の和歌、失語症患者の言葉などに話が及んでいく。最初に挙げた比喩の例は直喩で「言葉・狂気~」で扱われているのは隠喩だが、言葉の結びつきという点では同様に扱えるはずだ……。

 ところで直喩のこと。
 8回目の比喩の話で、「比喩は説明・描写するべき事物を説明・描写しない。」と書いているが、直喩には説明・描写に値する使い方があるようだ。
「小説の自由/保坂和志」から引用。保坂和志が新宮一成の論考「カフカ、夢と昏迷の論理」について考えている部分。

----引用開始----

 緊張病は昏迷とその反対の激しい力を出す興奮を繰り返す。六ヶ月にわたって昏迷と興奮を繰り返した新宮のある患者は、そこからやっと抜けきったとき、
「醒めない夢を見ていたようだった」
 と言った。
 ここで「ようだった」という直喩が使われているが、これは曖昧に語っているわけではなく、「醒めない夢を見ていたとしか言いようがない」という用法だ。「ようだった」を使うなと言われれば、「昏迷」または「緊張病」となる。つまりそれは、症状だから名指すことができる。

(小説の自由/保坂和志 158~159p 太字は引用元では傍点)
----引用終了----

 そうとしか言いようがない……。この表現を使うのは、非常に難しいことだ。他の言いようもあるかもしれない。文学には数学的厳密性がないから、常にその問題が付きまとう。後期クイーン問題の第一問題っぽい(しかしwikipediaでは関連項目にゲーデルの不完全性定理がある……。数学的にも問題があるのか?)。しかも、描写の対象はこの言葉に見合うだけの複雑さを有する必要がある。
 それだけに言い切れた、言い切られたときの爽快感というか、有無を言わさない力強さは魅力的に思えてくる。

 同書ではこんなことも書かれている。
----引用開始----

 用語が比喩的な意味にすり替わってしまわないことは重要なことだ。「論」として考えるときに、もしその人が問題をクリアにしようとして書いているのなら、比喩的な用法は許されない。比喩的な用法をしてしまうと、論者の意図を離れて言葉の運動として、意味が勝手に横滑りしていってしまう。

(小説の自由/保坂和志 158p)
----引用終了----

 詩人たちの営為は、まさにその横滑りがキモになっているだろう。


 今回、殆ど考えが進んでないので、次回以降も比喩についてやっていきたい。とりあえず「言葉・狂気~」を読んで考えを進めよう。
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