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・比喩と共感覚


「ぼくには数字が風景に見える/Daniel Tammet」を読んだ。共感覚を持ちサヴァン症候群である著者の自伝。原題は「Born on a Blue Day」で、ダニエルの生まれた日が水曜日であること、水曜日というのはダニエルの感覚で水色だということに由来している。
 共感覚というのは、例えば数字を見ると色や形を感じる感覚だ。味を感じる人もいるだろうし、数字じゃなくて、音に色が付いている場合もあるだろう。数字や音にそういうイメージを持っているということではなく、数字や音によってそういう風に触覚や視覚が働くということである。
「ぼくには数字が~」の中で、この共感覚と文学の関連について触れている部分があった。

----引用開始----
 たとえばウィリアム・シェイクスピアは隠喩をよく使うが、その多くは共感覚によるものだ。『ハムレット』でフランシスコという人物に「苦い寒さだ」と言わせているが、これは味覚と皮膚感覚が組合わさっている。『テンペスト』では、感覚の隠喩のみならず、確固とした経験と抽象的な発想とをつなげている。
(中略)
 こうしたつながりをつくることができるのはなにも芸術家ばかりではない。多かれ少なかれ、だれもが共感覚に頼っているのだ。『レトリックと人生』という本のなかで、言語学者のジョージ・レイコフと哲学者のマーク・ジョンソンは、隠喩は恣意的につくられるものではなく、ある考えを背景にした一定のパターンがあると述べている。その例として挙げているのが特定の感情だ。「楽しい」は「上昇」と、「悲しい」は「下降」とつながっている――「気分が上向きになると精神が高揚し、落ち込むと気分が沈む」など。

(ぼくには数字が風景に見える 190~191p)
----引用終了----

 だれもが共感覚に頼っている……これは実験でも確かめられることのようだ。

----引用開始----
 だれもがこうした言語共感覚を持っているということは、一九二◯年代に初めておこなわれた実験でわかった。この実験は、視覚のパターンと言葉の音の構造のつながりを研究するためにおこなわれたものだ。実験者であるドイツ系アメリカ人の心理学者ウォルフガング・ケーラーは、適当に選んだふたつの形(丸みのあるなだらかな形と鋭く尖った形)を示し、「タカテ」と「マルマ」という言葉を被験者に教えた。そして、どちらの形が「タカテ」で、どちらの形が「マルマ」かと被験者に訊いた。すると、圧倒的な数の人が、丸みのあるほうが「マルマ」で、尖ったほうが「タカテ」だと答えた。

(ぼくには数字が風景に見える 192~193p)
----引用終了----

 共感覚は誰でも持っている……というと誇張になるだろうが、近い感覚を持つことはできるし、小説というのも、この感覚の元に読むのが本来の楽しみ方だろう。「苦い寒さ」という表現は、単に寒さの厳しさを表すものではなくて、苦味を伴うという、また別種の表現のはずなのだ。
 しかし「気分が沈む」というような表現は平常の言葉として使えてしまう。そこに感覚的な「下降」はない。そういう表現……比喩として定着している。気分に高度などない。
 しかし、この言葉が登場した当時はどうだったのだろう? つまり単なる定型文ではなく、感覚的に納得できる表現だったのではないか。最近の言葉でいえば「気分がブルーになる」だろうが、これも、青のイメージが感覚的に納得できるから定着したに違いない。
 この手の言葉、言語共感覚に由来している言葉は、そこに伴う感覚を忘れてしまうとただの定型文、ただのそういう言い回しとなってしまう。少なくとも前田は「気分がブルーになる」という表現を読んで青色をイメージしない。表現の面白さは消えてしまっている。
共感覚者の語る言葉が面白いのは、まさに感覚が動員されているからではないか? 普通なら比喩となる表現が比喩でなくなっているということでもある。

 感覚の動員と比喩を使わないというふたつは小説において、独立したそれぞれとして重要なことだと思う。尤も、比喩を使わないというのは疑いの余地があって……というか、比喩についての考えを進めた先には重要なことがあるんじゃないかと疑っているから、前田は現在、比喩についてこのblogで諸々書いているわけだが……難しい。
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