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・作品タイトルをどうやって決めるか?

 ちょっとツイッターで話が上がった。どうやって作品にタイトルを付けるか?
 前田の中で面白いタイトルを付ける作家といえば森博嗣が最初に挙がる。
「すべてがFになる」
「詩的私的ジャック」
「幻惑の死と使途」
「数奇にして模型」
「有限と微小のパン」
 S&Mシリーズの中で前田の好きなタイトルである。こうして列挙すると、おおよそではあるが、幾つかの特徴が見えてくる気がする。

1.組み合わさる単語間のズレに面白さがある
2.発音としての面白さがある
3.正体不明

 例えば「すべてがFになる」の面白さは1と3だと思う。~になる、という言葉から物質の変化を思い浮かべるも、主語になっているのは「すべて」という抽象。「F」も抽象だろう。この「なる」と「すべて」「F」の間にあるズレが面白い。また「F」というのもタイトルからだけでは何のことか解らない。
 2.の面白さはそのまんまで「詩的私的」「死と使途」という、音の繰り返しがもう面白い。「数奇にして模型」も2.の面白さがあって、音は同じで別の意味の文章が浮かびあがる。「suki ni site mokei→好きにしてもOK」。

 こういう風にして自分の好きなタイトルを列挙して特徴を探していくと「どうすればタイトルが面白くなるか」をおおよそ掴めるのではないかと思う。


fig.1 タイトルと特徴の一覧。黒マスが特徴を持っていることを示す

 しかし、こうしてタイトルの特徴を探しても、実際に自作でこの特徴を取り入れられるかといえば、話は別だ。実に当たり前のことだが、タイトルというのは作品に付けられるものであって作品と無関係ではいられない。作品によっては取り入れられない特徴というのもあるだろうし、逆に親和性の高い特徴というのもあるかもしれない。前田の実感では前者の方が多いように感じる。

 作品にタイトルを付けるのではなく、タイトルに作品を付けるというやり方も考えられる。先にタイトルを決定してから作品を創るという場合だ。こうすれば上に挙げたようなタイトルの特徴を上手く取り入れることが可能だろう。
 森博嗣がまさにタイトルを先に決める作家であって、氏はタイトルと合致するように作品を書いていくらしい。

----引用開始----
よく「どんなふうにしてタイトルを決めるのか」と問われる。しかし、「これです」というルールはない。とにかくひたすら「考える」。そして、納得がいくまで決めないことにしている。僕は、タイトルが決まらない状態で小説を書き始めることはない。あとで決めれば良い、というふうには考えない。本文ができてしまったあとに適切なタイトルをつけるなんて、それは無理な話だ。タイトルを決めれば、それに相応しい小説が書ける。その反対は極めて困難だ、と少なくとも僕は思う。

(小説家という職業/森博嗣 188~189p)
----引用終了----

 自分の話だが、前田は作品を書いた後にタイトルをつける。最近、タイトルを決定してから本文を書き始めるということをやろうとしたのだが、こうするとタイトルが邪魔に感じられる……森博嗣の言葉でいうと、タイトルに相応しい小説を書こうとして、それが非常に不自由に感じられて途中でやめてしまった。
 前田のタイトル後付のやり方は、以下のような手順である。
1.作品を書いているうちに、なんとなくタイトルの"感じ"がわかってくる。
2.書き終わったら、"感じ"から得られる単語や文章を列挙する。
3.出てきた単語や文章を元に色んなタイトルを考える。50~150案くらい。
4.一番良くできたと思ったタイトルを採用。


 ところで気になるのは、タイトルと作品の関係だ。
小説や詩などの文芸、絵画、マンガについてはタイトルと作品の関係が何となく解る。作品の中にも言葉があるからだ。
 では、作品の中に言葉がないもの……インストロックなどの音楽は、どのようにタイトルが付けられているのだろう? タイトル付けの手順ということではなくて、作品からどのようにタイトルになっている言葉が出てくるか、またはタイトルになっている言葉からどのように作品が出てくるか、である。
 ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」は、音楽を創れない前田のような人間にも、標題と作品との関係が解り易い気がする。「月光」という標題はもともと作曲者の意図したものではなく、とある詩人が「湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と評したところから付いた、いわば通称である。だから「実作者の付けるタイトル」の例とはならないのだが、しかし、その曲のイメージをタイトルにするというのは、納得がいく。「月光」の第一楽章は実際、その通称にふさわしい感じがある。
 音楽は、音楽用語を駆使しないのであれば、言葉で語ることが非常に難しいものだと思う。にも関わらず「月光」のように、音だけから具体的なイメージを喚起するようなものもある……。これはすごいことではないか?
 しかし全ての人が、音からイメージを喚起されるわけではないだろう。前田は「月光」を聴いていても「湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」だとは全く思わないし、月の光のイメージを持つこともない。夜の感じだとは思うが、これも「月光」という通称ありきで思っている可能性がある。
 だから、作曲者が明確にイメージを持っているのであれば、タイトルというのは曲のイメージを共有するための策として機能することになる……。この機能を目的としてタイトルが付されるのであれば、タイトルは音楽作品の一部ではない(というか、音だけから成る音楽なのだから言葉が作品の一部になるはずはないと思う。絵画も同様だ)。ゲームの説明書みたいなものだろう。名前(言葉)が付くことで安心する……感想を持つための指針として名前が活用される……というような。

----引用開始----
 聴き手、観客、読者……etcは、輪郭を与えられることによってはじめて、作品に対する感想や評価を持つことができる。「輪郭を与える」「……として定着させる」「受け手に対する方向づけとなる」等々、言い方はいろいろできるが起こっていることは一つのことで、作品の中に「こういう風に受けとめてくれ」という方向づけや輪郭作りがないと受け手は明確な感想を持てないのだが、(A)受け手だけでなく作り手もまた(A')、受け手が抱く感想を想定することが作品を作るときの拠り所のひとつとなる、ということなのだ。つまり、引用に即して言うなら「作り手もまた安心感を得られる」。
----引用終了----
(小説の自由/保坂和志 229~230p 原文では(A)~(A')間の文章に傍点)

 引用部は「甘やかなブルース サム・クック論/石黒隆之」という音楽評論に対する保坂和志の言葉である。ただし、この引用部は音楽のタイトルとは関係がなく、「サム・クック論」の以下のような文章に対してのものである。

----引用開始----
ホーンセクションを多用し、華々しく猛々しいサウンドの「My kind Of Blues」は、BBキングやレイ・チャールズが、白人の聴衆を相手にするときと同じやり方でブルーズを聴かせている。ホーンセクションが、明確な記号となって音楽に輪郭を与えているから、聴き手は安心感を得られるのである。
----引用終了----
(「小説の自由」に引用された「甘やかなブルース サム・クック論/石黒隆之」)

 明確な記号となって音楽に輪郭を与えている……明確な記号……これがタイトルも同様ではないか? タイトルという言葉を拠り所のひとつとして聴衆は音楽を聴き、作り手は音楽を創る。

 しかし……本当に「タイトルという言葉を拠り所のひとつとして聴衆は音楽を聴」くのか? 前田には実感がない。音楽を聴いて感想を言葉にするときは、自分勝手な言葉のイメージを使う。鋭い感じとか、薄い感じとか厚い感じとか。これら形容詞は実際の音楽と(個人のイメージとしてしか)対応しておらず、従って、音楽を語ることになるとは言い難いと思う。いや、誰かに伝えない、という前提ならそれでもいいと思うが。
 やっぱり、音楽用語とか、科学的な言葉とか、作曲者・演奏者に関する言葉とか、それ以外で音楽を語ろうとするなら、残されたのはタイトルの言葉を使うということしかないのではないかと思ってしまう。

 実際、世の音楽評論はどういうふうに音楽を語るのだろうか? 音楽評論は殆ど読んだことがないので、いずれ、手をつけてみようかと思う。
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