・人称のこと
小説で書かれる文章には、どこかに設置されたカメラで撮れるものに限る、とでもいうような縛りがある。どこかというのは空間的な話じゃない。登場人物の視点であったり、神の視点であったりする。
小説の人称は視点の位置によってある程度定まったりもする。
特に一人称の場合は、視点はその一人称の登場人物となり神の視点は持てない、というのがよく言われる小説作法ではなかろうか。
作法は作法であってルールでない。というか小説にルールというものは存在しないといっていい。「言葉のみを使うこと」が最も普及し得るが、太字の使用やフォントサイズの変更、視覚的作用の利用(平野啓一郎の短編のような)などもあるため「言葉のみの使用」というのも作法のひとつに過ぎず、ルール違反とは言えない。
それはともかく、人称と視点である。
人称は小説にどれくらい影響を与えるものなのか、人称というのは小説にとって何なのか? どうして人称が選ばれるのか?
一人称と三人称が最も多く選ばれる人称なのは間違いないところだと思う。逆に、それ以外の人称を持つ作品というのは、どういうものがあるだろうか。前田の知っている範囲ですぐに思いつくのは、
作者の一人称……ベルカ、吠えないのか?/古川日出男
一人称複数……族長の秋/G・ガルシア=マルケス
二人称……疾走/重松清
「ベルカ、吠えないのか?」は明確に作者が登場するわけではない。登場人物として作者が出てくるのではなくて、この作品を書いた作者=古川日出男が、登場人物たちに向かって向かって語りかけるような文体になっているということ。一人称の「おれ」も「僕」も出てこないが、前田が一人称だと思うのはそのためだ。
この作者一人称はモロに作品全体に影響する。読んでいる間中、どうしても意識し続けるからだ。作品のリアリティに直結する人称でもある。作者からの語りかけということを意識する限り、この作品はあくまでフィクションであり、読者を小説の世界に没頭させ酔わせることはない。読者の現実は小説の世界と重ならない。読者はまるで小説の世界を体験したように感じることはない。しかし小説を読んでいるという現実は間違いなく読者の現実だ。これが「ベルカ」の持つリアリティである。同作者の「ハル、ハル、ハル」も同じようなリアリティで書かれている。
「族長の秋」は途中までしか読んでいない。二章の途中くらい。この段階で主語が変わっていたと思うので、終始一人称複数、というわけではないようだ。一章の範囲では、一人称複数だったように思う。
思う、などと曖昧な書き方をしているのは「族長の秋」の人称は非常に解りにくいからだ。一章で使われている一人称複数の「われわれ」はすぐに出てくるので、すぐに「この小説は一人称複数を使っているのか」と思うことができる。
しかし……一文辺りが長い、改行が全くない、書かれている内容が空間的に広範囲に及ぶなどといった要因からか、誰がこの内容を語っているかがどうでもよくなる。更に二章の頭は一人称複数になっているのだが、気づけば「わし」という人称に変わっている……。
なんというか、一人称複数であるということを処理しきれなくなる。
一人称複数であることを意識して読めば、それ相応の効果が機能しているような気はする。が、そんなことはどうでもよくなってくるような文章なのだ。「われわれ」の関わってこない部分が多すぎる。何より、読んでいて複数人という実感が湧いてこない。
この作品は、一人称複数であることを本当に意識しているのか? 人称など何だろうと構わないのではないか? むしろ人称からの影響を積極的に消そうとしているようにも見える。
「疾走」は冒頭しか読んでいないのでよく分からん。しかし二人称を読む感触が他の人称の小説を読む感触と異なるのは確かである。
いずれにせよ、変わった人称を選ぶということはそれだけで小説に何がしかの影響を与えるものだ。では一人称、三人称は影響を与えないのか?
「夏と花火と私の死体/乙一」を思いだした。
これは一人称であるのだが、視点はあちらこちらに飛びまくる。一人称の主体が特殊な存在であること、それから視点を動かすことによって生じるサスペンス。……これは視点との合わせ技か。
読者が人称に対して強く注意を払うのは、それが特殊な場合だけだ。二人称や一人称複数……。一人称や三人称は、最初に『そうだ』と了解を取れば、後はもう対して着目されるようなものではない。
しかし……小説が生まれた当初はどうだったのだろう?
まずは一人称小説が生まれたのではないか……と勝手に想像する。もともと物語は口伝だったのだから。
そもそもなんで物語を口伝する必要があったのか。物語以前は何が口伝されたか。知識が口伝されたはずで、それはつまり、本能以外の能力を言葉で伝えるということだ。言葉というのは見様見真似ではない伝達だ。
いや、今はそこはいい。小説のことに戻ろう。
小説の形態になっても明確な語り手=一人称の語り手が必要だったのではないか。そのためにまず一人称小説が生まれたのではないか。口伝であれば目の前に語り手が存在するため、三人称で物語ったとしても問題ない。しかし小説では、語り手が眼前にいない。せめて文字の中に語り手が必要だ。
それから三人称小説が登場する。初めて三人称小説を読んだ人間の感想は『語り手は誰だ?』ではないか。目の前にも文字の中にも、いるべきはずの語り手がいない。では、どこにいる?
真っ先に出てくる答えは著者なのではないか? 語り手はどこにもいないのに、文字に残っているということだけで、語り手が規定される……リアリティという概念が発生したのはこの頃ではないのか? 今までいた語り手に代わって著者が語り手足り得るために必要な要素として、リアリティがある。
三人称小説のリアリティはそのうち一人称小説にも波及する。文字の形で語り手がいるけれど、本当にこいつを語り手として認めてもいいの? それから、もとの口伝にも波及する。お前、いっちょ前に物語ってるけど、それをお前が語っていい根拠って、何?
誰でもは語れない……語り手がその物語の当事者でなければならない、ということか? ならば、語り手が当事者でない場合に語る資格を得るためにはどうすればいいか。
作り話であればいいのではないか。作り話であるのなら、語り手が当事者になれる。作り話が過剰になっていけばフィクションになる。それから一人称小説、三人称小説にもフィクションが波及する。
今や一人称小説、三人称小説で語り手の問題は消えた。フィクションを取り込んだ結果、語り手は誰でもよくなったからだ。リアリティの意味も変化する。いつの間にか語り手の根拠ではなく、フィクションの尤もらしさに変わっている。
二人称小説は語り手という点で三人称小説と変わらない。ただし読者の立ち位置が違う。「語られ手である読者」は、フィクションを前提にしなければ絶対に成立しない。しかし読者は自分の現実を持ちフィクションではない。この現実とフィクションの差異が二人称特有の感じを生み出しているのではないか。
散々書いたが、前田の妄想である。何か出典があるわけでもないし、前田の持っていたリアリティ観を先入観的に持ち出してもいる。
ところで、このblogは三人称ですね。
小説で書かれる文章には、どこかに設置されたカメラで撮れるものに限る、とでもいうような縛りがある。どこかというのは空間的な話じゃない。登場人物の視点であったり、神の視点であったりする。
小説の人称は視点の位置によってある程度定まったりもする。
特に一人称の場合は、視点はその一人称の登場人物となり神の視点は持てない、というのがよく言われる小説作法ではなかろうか。
作法は作法であってルールでない。というか小説にルールというものは存在しないといっていい。「言葉のみを使うこと」が最も普及し得るが、太字の使用やフォントサイズの変更、視覚的作用の利用(平野啓一郎の短編のような)などもあるため「言葉のみの使用」というのも作法のひとつに過ぎず、ルール違反とは言えない。
それはともかく、人称と視点である。
人称は小説にどれくらい影響を与えるものなのか、人称というのは小説にとって何なのか? どうして人称が選ばれるのか?
一人称と三人称が最も多く選ばれる人称なのは間違いないところだと思う。逆に、それ以外の人称を持つ作品というのは、どういうものがあるだろうか。前田の知っている範囲ですぐに思いつくのは、
作者の一人称……ベルカ、吠えないのか?/古川日出男
一人称複数……族長の秋/G・ガルシア=マルケス
二人称……疾走/重松清
「ベルカ、吠えないのか?」は明確に作者が登場するわけではない。登場人物として作者が出てくるのではなくて、この作品を書いた作者=古川日出男が、登場人物たちに向かって向かって語りかけるような文体になっているということ。一人称の「おれ」も「僕」も出てこないが、前田が一人称だと思うのはそのためだ。
この作者一人称はモロに作品全体に影響する。読んでいる間中、どうしても意識し続けるからだ。作品のリアリティに直結する人称でもある。作者からの語りかけということを意識する限り、この作品はあくまでフィクションであり、読者を小説の世界に没頭させ酔わせることはない。読者の現実は小説の世界と重ならない。読者はまるで小説の世界を体験したように感じることはない。しかし小説を読んでいるという現実は間違いなく読者の現実だ。これが「ベルカ」の持つリアリティである。同作者の「ハル、ハル、ハル」も同じようなリアリティで書かれている。
「族長の秋」は途中までしか読んでいない。二章の途中くらい。この段階で主語が変わっていたと思うので、終始一人称複数、というわけではないようだ。一章の範囲では、一人称複数だったように思う。
思う、などと曖昧な書き方をしているのは「族長の秋」の人称は非常に解りにくいからだ。一章で使われている一人称複数の「われわれ」はすぐに出てくるので、すぐに「この小説は一人称複数を使っているのか」と思うことができる。
しかし……一文辺りが長い、改行が全くない、書かれている内容が空間的に広範囲に及ぶなどといった要因からか、誰がこの内容を語っているかがどうでもよくなる。更に二章の頭は一人称複数になっているのだが、気づけば「わし」という人称に変わっている……。
なんというか、一人称複数であるということを処理しきれなくなる。
一人称複数であることを意識して読めば、それ相応の効果が機能しているような気はする。が、そんなことはどうでもよくなってくるような文章なのだ。「われわれ」の関わってこない部分が多すぎる。何より、読んでいて複数人という実感が湧いてこない。
この作品は、一人称複数であることを本当に意識しているのか? 人称など何だろうと構わないのではないか? むしろ人称からの影響を積極的に消そうとしているようにも見える。
「疾走」は冒頭しか読んでいないのでよく分からん。しかし二人称を読む感触が他の人称の小説を読む感触と異なるのは確かである。
いずれにせよ、変わった人称を選ぶということはそれだけで小説に何がしかの影響を与えるものだ。では一人称、三人称は影響を与えないのか?
「夏と花火と私の死体/乙一」を思いだした。
これは一人称であるのだが、視点はあちらこちらに飛びまくる。一人称の主体が特殊な存在であること、それから視点を動かすことによって生じるサスペンス。……これは視点との合わせ技か。
読者が人称に対して強く注意を払うのは、それが特殊な場合だけだ。二人称や一人称複数……。一人称や三人称は、最初に『そうだ』と了解を取れば、後はもう対して着目されるようなものではない。
しかし……小説が生まれた当初はどうだったのだろう?
まずは一人称小説が生まれたのではないか……と勝手に想像する。もともと物語は口伝だったのだから。
そもそもなんで物語を口伝する必要があったのか。物語以前は何が口伝されたか。知識が口伝されたはずで、それはつまり、本能以外の能力を言葉で伝えるということだ。言葉というのは見様見真似ではない伝達だ。
いや、今はそこはいい。小説のことに戻ろう。
小説の形態になっても明確な語り手=一人称の語り手が必要だったのではないか。そのためにまず一人称小説が生まれたのではないか。口伝であれば目の前に語り手が存在するため、三人称で物語ったとしても問題ない。しかし小説では、語り手が眼前にいない。せめて文字の中に語り手が必要だ。
それから三人称小説が登場する。初めて三人称小説を読んだ人間の感想は『語り手は誰だ?』ではないか。目の前にも文字の中にも、いるべきはずの語り手がいない。では、どこにいる?
真っ先に出てくる答えは著者なのではないか? 語り手はどこにもいないのに、文字に残っているということだけで、語り手が規定される……リアリティという概念が発生したのはこの頃ではないのか? 今までいた語り手に代わって著者が語り手足り得るために必要な要素として、リアリティがある。
三人称小説のリアリティはそのうち一人称小説にも波及する。文字の形で語り手がいるけれど、本当にこいつを語り手として認めてもいいの? それから、もとの口伝にも波及する。お前、いっちょ前に物語ってるけど、それをお前が語っていい根拠って、何?
誰でもは語れない……語り手がその物語の当事者でなければならない、ということか? ならば、語り手が当事者でない場合に語る資格を得るためにはどうすればいいか。
作り話であればいいのではないか。作り話であるのなら、語り手が当事者になれる。作り話が過剰になっていけばフィクションになる。それから一人称小説、三人称小説にもフィクションが波及する。
今や一人称小説、三人称小説で語り手の問題は消えた。フィクションを取り込んだ結果、語り手は誰でもよくなったからだ。リアリティの意味も変化する。いつの間にか語り手の根拠ではなく、フィクションの尤もらしさに変わっている。
二人称小説は語り手という点で三人称小説と変わらない。ただし読者の立ち位置が違う。「語られ手である読者」は、フィクションを前提にしなければ絶対に成立しない。しかし読者は自分の現実を持ちフィクションではない。この現実とフィクションの差異が二人称特有の感じを生み出しているのではないか。
散々書いたが、前田の妄想である。何か出典があるわけでもないし、前田の持っていたリアリティ観を先入観的に持ち出してもいる。
ところで、このblogは三人称ですね。
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