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・場という考え


 小説を駆動させ得るものとしての「場」とは何だ?
 単純な印象から出発しよう。場。field。物理学でいう場のイメージ。時空間全体に渡って定義され、座標に従属する物理量。そういうイメージ。
 小説には舞台がある。舞台とは何か? 場所だ。事件は「どこか」で起きるし、物体は「どこか」にある。演劇の世界では何も置かれていない、ただ黒いだけの壇上を使ったりしてどこでもないというか、完全なsomewhereを表現したりするが、前田はそういう小説を読んだ記憶がない。
「どこか」を現実的なものとして採用した場合、書かれない部分が確実に存在する。例えば日本が舞台だと標榜するとき、福井県西暁町にいる主人公が通り魔と対決している間にも、広島県南条町では子どもを三人持つおかあさんが買い物カゴに大根を放り込んでいる。
 また、場所には文化という側面もある。日本が舞台であるならば家の中に土足で上がることは基本的にない。表現し辛い空気というようなものもある。文化……空気……これは一種のルールだ。日本では往来で叫びながら走り回っているとマズい。しかしスペインのトマト祭りなら大丈夫なんじゃないだろうか。
 この広さとルールの存在が「どこか」の表現として重要なパラメータだろう。
 広さとルール? それはスポーツのことか?
 場ではなくスポーツと言うと、小説を駆動するものとしてより適切な気がする。小説を駆動させるものとして、人間ではなくスポーツを使うということ。

 スポーツには選手がいる。選手たちが動くことでスポーツの場は進行していくのだが、そこに人間はいない。スポーツの個々のプレイには「谷山選手は女手ひとつで育てられ、一時期は不良でしたが、しかしサッカーを始めたことがきっかけで構成し……」などというエピソードは入り込まない。各選手の性格がプレイスタイルに反映されていることは間違いないが、スポーツでは逆に語られる。即ち、性格に先んじてプレイスタイルがある。積極的に接触プレイを挑むような選手を「荒々しい」などと表現する。フィールドを離れた選手がどんな性格だろうが、そんなことはどうでもいい。
 選手たちの思考も、競技ありきというか、競技に奉仕するような形になっている。シュートを打つか、パスを回すか? それともドリブルで突破するか。メリット、デメリット、リスク、リターンを考慮した上で、最も勝利に繋がるものが選択される。選択の基準は勝利しかない。
 以上の意味でスポーツには選手がいても人間がいない。

 これをそのまま小説に適用できるか? 選手は登場人物であり、ルールは舞台。しかし、舞台にスポーツで勝利条件にあたるものがない。ならば付加する必要がある……テーマや、イメージといったものが勝利条件として付加されるのか?
 前田としては、悪くない駆動だと思う。
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