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・はじめに


 小説というものに対して前田が取り得る行為は3つある。
1.小説を読む
2.小説を書く
3.小説を考える

 このみっつの行為は保坂和志に倣っている。氏は著書「小説の自由」で以下のように書いている。

 私にとって小説とは「読む」もの「書く」ものであると同時に「考える」ものだ。

 実際、前田が――小説を書きたがっている人間にとっては、と言い換えていいと思うのだけど――上3つの行為が小説に対してできることだ。
 批評という行為もあるけど、今は考えないことにする。小説家の本分は批評を書くことではないからというのがひとつ、批評は批評で小説とは別に考えるものなのではないかという疑いがもうひとつだ。要するに、そこまで手が回り切らないし、優先度も高くないから除外する。

 これからやっていきたいのは3の「小説を考える」ということだ。
 再び保坂和志の言葉だが、「小説を書く」とは「小説とは何か?」を常に考えながら進行していくべきことらしい。
 前田はまだ面白い(新人賞くらい獲れるような)小説を書き上げられたことはないけれど、理想の小説というか、小説のイデアのようなものが見えてこなければ、面白い小説を書けないだろうという予感がある。「小説とは何か?」ということに対する憧れもあるけれど。
 そんなわけで、何回かに渡って、もしくは何回にも渡って、小説について考えていきたい。
 材料は幾つかの小説と、前田の感性と、人の言葉になるだろう。

 ところで「批評」という言葉を一旦経由してみると、上記の1~3での「小説」という言葉は、どうも揃っていない。
 読むのも書くのも対象は個別の作品だ。けれど考えるのは、個別の作品に対してもできるし、小説というもの全体に対してできることでもある。
「考える」ということだけ浮いている……。
 いや、書くという行為で対象となる小説はまだ書き上げられたものではないから、考えると同様、個別でない作品を対象にしているかもしれない。
 ただしそうなると「読む」が浮いてくる……。
 この問題は置いておこう。ただの言葉遊びに過ぎないかもしれない。いずれ必要があればまたここに戻ってくるだろう。
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