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・書き出しのこと


 小説を書こうと思う。どんな書き出しがいいか?
 書き出しでどんなことを書くか、既存の小説にはどんな書き出しがあるかを、特定の基準を設けること分類してみる。

・風景:風景を書く。
・独白:視点保持者の心情のみを書く。一人称的。
・真理:作中世界の真理とでもいうべき事柄を書く。三人称的。
・社会:時代背景や政治的背景を書く。
・状況:登場人物が取り巻かれている状況、事件や異常事態などから書く。
・接触:登場人物同士の対話を書く。

 他にもあると思うし、基準が曖昧なものもあると思う。例えば作中人物の一人称視点で真理的なことが語られていた場合どちらに分類されるのか?
 しかし、この分類にはあまり意味がない。書き出しの面白さと上の分類基準とは無関係だからだ。


----引用開始----


 この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ。ノワールでもいい。家族小説でもいい。ただただ疾走しているロード・ノベルでも。いいか。もしも物語がこの現実ってやつを映し出すとしたら。かりにそうだとしたら。そこには種別なんてないんだよ。
(ハル、ハル、ハル/古川日出男 傍点とルビは引用者削除)


 おれはきみのことを知っている。
(LOVE/古川日出男)


 何とかと煙は高いところが好きと人は言うようだし父も母もルンババも僕に向かってそう言うのでどうやら僕は煙であるようだった。
(世界は密室でできている。/舞城王太郎)


 私は
 たぶん、今目覺めた。
 此處は、何處だらう。
 私は何をしてゐるのだらう。
(姑獲鳥の夏/京極夏彦 空白行は引用者削除)


 この世でいちばん速い音がなんだかわかるだろうか?
 夏の終りの遠い稲妻の響きでも、駆け抜ける違法改造車のエキゾーストでも、嵐の空を吹き流される小鳥の歌でもない。そんなものよりもっともっと速い音だ。わかるはずがないだって? おれだってそんなこと、あの音にぶつかるまで考えてもみなかった。
(骨音/石田衣良)


 長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。
(百年の孤独/G・ガルシア=マルケス 訳:鼓 直)


 ロリータ、わが生命のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロ、リー、タ。舌のさきが口蓋を三歩すすんで、三歩目に軽く歯にあたる。ロ。リー。タ。
(ロリータ/ウラジーミル・ナボコフ 訳:大久保康雄 ルビは引用者削除)

----引用終了----

 前田が面白いと思う書き出しを幾つか引用してみた(伏線としての上手さというのは面白さの要素として考慮しない)。全て最初に示した基準に分類することが可能だ。可能だがそれが何だというのか?「ハル、ハル、ハル」の書き出しは「真理」の基準に分類されると思うが、しかし、その面白さは、作中の真理を書いているからではない。
 引用した書き出しの面白さと分類を一致させようとすれば、最初に示した基準では明らかに不足していて、もっと多様な基準が必要になる。
 要するに基準の設定はキリがない。幾ら細かくしたところで、その基準に当てはまらないような面白さを持つ書き出しは幾らでも出てくるだろう。
 書き出しを考えるときに分類・基準を意識するのはいいが、したところで大した成果は得られない。それよりもその書き出し固有の面白さを考えた方がいい……。

 そんな当然というか、面白味のない結論はともかくとして、書き出しについて他に考えたいことが2点、ある。

1.書き出しの文章でしかできないことはあるか? 言い換えれば、その文章が書き出しであるが故に持つ面白さというものがあるか?

2.「風景」と「社会」にある面白さ。

 1から考えたい。
 書き出しと、その他の部分は何が違うのか? 実に単純な話で、書き出し以前にはその小説は存在していない、という一点に尽きる。特殊な場合を除けば小説は書き出しから読まれるもので、書き出し以外の場所には、そこ以前のその小説が読者の頭の中に必ず存在している。
 それ以前が存在していないが、そこから存在し始める。いわば境界である。
「書き出しである」ということから受ける印象は言語化しにくい。しにくいが、或る文章を書き出しとした場合、その文章の意味内容以外の印象が付加されるのは間違いないと思う。
 この書き出しとしての印象は、決して小さなものではない。また、書き出しとしての印象というのは、どんな文章に対してもプラスになるわけではない。先入観だろうか? 上に引用した書き出しは、書き出しでなければ魅力がなくなってしまう。また、前田の好きな文章でも、書き出しにはふさわしくないと思えるものがある。

----引用開始----

 僕はまだ子供で、
 ときどき、
 右手が人を殺す。
 その代わり、
 誰かの右手が、
 僕を殺してくれるだろう。
(スカイ・クロラ/森 博嗣)

----引用終了----

 スカイ・クロラの中でも特に前田が好きな文章だが、これを書き出しに持ってきたとしたらどうか? スカイ・クロラの書き出しが上記の文章だったとき、前田は先に引用した「面白い書き出し」としてスカイ・クロラを引用したか?
 しない気がする。これは先入観だろうか?

 ふとインスピレーション。
 書き出しとは、決定である。書き出しによって記述される文章は問答無用で決定される。
 決定? 何を決定するのか? その文章で記述されることが、小説として'そう'であることが決定される。小説世界の事実として確定するというか……そういう感じ。
 このように考えると、スカイ・クロラが書き出しとしてふさわしないという前田の感想と矛盾しない。
 つまり、スカイ・クロラの書き出しは未来形だということ。それから、小説世界の記述であるということ。このふたつの要因が「決定」という書き出しの特性に合わないのだ。 小説世界というのは、読者が小説から受ける印象の象徴というようなもの、と言い換えてもいいだろう。これは問答無用で決定されるべきものではなくて、小説を読んでいく中で立ち上がってくるべきものだ。だから書き出しとしてふさわしくない。

「問答無用で'そう'とされる」
「小説世界の記述」
 この考えは悪くないと思う。これは仮定に過ぎないが、しかし、仮定されるだけの価値があるのでは? 前田はそう思うし、ひとまずそう仮定して小説を書き出してみよう。


「風景」と「社会」にある面白さについても次から考えていきたい。
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