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・小説のタイプ


 現在、古川日出男は雑誌「SWITCH」にて、あまり創作論には見えない創作論「小説のデーモンたち」を連載している。その第6回(SWITCHの2011年8月号収録)にて、古川日出男は「この世には二種類の小説しかない」と述べている。

----引用開始----

 一つは、いわゆる小説。近代的な小説と言ってよい。たとえば登場人物がいれば、その個人の内面が描かれる。物語を駆動するのは、人物の内面だ。
(中略)
 もう一つは、もしかしたら小説とは呼ばれない。神話的な小説だ。そこでは物語は人だの動物だのの個の内面で駆動されるものではないし、運命は運命自身の意志によって働いて、描写は視点人物どころか神(?)のレベルからしか行われない。
(中略)
 一冊だけ後者の例を挙げれば、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』がそうだ。神話的な小説。
(小説のデーモンたち 第6回/古川日出男)

----引用終了----

 小説を駆動させるものは何か? 抽象的だが重要な問題だと思う。
 個人の内面により駆動される物語、それから運命自身の意志によって駆動する物語。
 個人の内面は分かる。しかし、運命とは何だ?「小説のデーモンたち」は創作論らしいのだが、創作論として読むには説明が足りず、だからこそ、創作論として機能しているフシがある。運命という単語もまた説明されていない言葉で、だから個人で考えるしか道はなく、その道は創作と同じ方向に伸びている。
 ともかく、運命……というか、個人の内面ではない物語を駆動するもの、小説を進めていく人間以外のものを考えたい。
 今、前田の頭の中には「百年の孤独」を駆動するものとして「場」という言葉がある。場。field。物理学でいう場のイメージ。時空間全体に渡って定義され、座標に従属する物理量。そういうイメージ。
「場」という言葉は保坂和志の小説論において、「百年の孤独」は何によって駆動しているのかという話題のところで登場した。「百年の孤独はストーリーではなく、場によって駆動している」というような論調だった。しかし「場」という概念について言葉を費やして説明されてはいなかったように思えるし、どこに載っていたのかも憶えていない。やはり前田のイメージで考えていきたいと思う。

 そもそも小説の駆動とはどういうことか? 前田は単純に、読者が次の文章を読む、そして作者が次の文章を書く、そういうことだと思っている。ならば、駆動させるものというのは、読む根拠、書く根拠だ。強く言うなら、次の文章を読まなければならない/書かなければならない根拠。
 ストーリーであるならば、次の文章を書かなければならない根拠は明白にある。ストーリーは完結しなければならないからだ。
 ストーリーでないならば、どうなる?
 何がしかのテーマがあるのであれば、テーマが達成されるまで書けばいい。テーマさえなければどうなる?
 これより先はもう、個別の小説に問うしかないのではないか? 実際に具体的な小説を書き、それを書いていく中で「いつ終わるか」を常に問うしかないのではないか? いわば、小説を駆動する力がそこにあるかないかを考える……そういうことをしなければならない。
 作者がその小説全体に持っているイメージが、小説を駆動させる力であるかもしれない。作者の持っている小説全体のイメージが、きちんと反映されているかどうか。作者のイメージの実現に向けて小説が駆動する……。
 イメージの実現とテーマの達成というのは似ているか、包括関係にあるのかもしれないが、イメージの方がより明文化されにくい、または明文化されないものとして前田は扱っている。


 次は「場」について考えを進めていきたい。
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