・人物について
前回までの流れで「社会」という小説の要素について考えようと思ったが、こちらは前田自身があまり興味を持っていないので、後回しにする。代わりに別の小説の要素、ありとあらゆる小説に含まれる要素である「人物」について考えを進めたい。
そもそもどうして小説には人物・人間が登場するのか? 人間がいなくても小説は成立するのではないか?
「書きあぐねている人のため小説入門/保坂和志」では「小説とは何か?」の問に対する答えのひとつとして、以下のように答えている。
----引用開始----
それは、小説とは、"個"が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。つまり、小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ。
----引用終了----
人間に対する肯定、ということならば、小説に人間が登場しても違和感はないし、むしろ積極的に登場させなければならないように聞こえる。
しかし、小説に登場する人間を肯定するということと、小説によって人間を肯定することはイコールではないだろう。しかも前田自身は小説に対して「人間に対する圧倒的な肯定」というイメージがないため、引用した文章が腑に落ちない。強いて反論する気持ちはないが、しかし簡単に受け入れることもできないという気分だ。
人間に対する圧倒的な肯定、個が立ち上がるということについては、岡本太郎が近いことを言っているようにみえた。「今日の芸術/岡本太郎」での一章「なぜ、芸術があるのか」では、人間の生きるよろこびについて、以下のように言及されている。
----引用開始----
すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない、そのよろこびが芸術であり、表現されたものが芸術作品なのです。
(中略)
現代人の生きがいのようになっている余暇の楽しみ、生活の趣味的な部分について考えてみましょう。
われわれの生活をふりかえってみても、遊ぶのには、まったく事欠きません。そして、ますますそういう手段、施設はふえるいっぽうです。だが、ふえればふえるほど、逆にますます遊ぶ人たちの気分は空しくなってくるという奇妙な事実があります。
(中略)
どんなに遊んでも、そのときは結構たのしんでいるようでも、なにか空虚なのです。自分の生命からあふれ出てくるような本然のよろこびがなければ、満足できない。自分では知らなくても、それは心の底で当然欲求されているし、もし、その手ごたえがつかめれば、健全な生活のたのしみが、自然にあふれでてくるはずです。
----引用終了----
前田には、保坂和志のいう「個が立ち上がる」「人間を肯定する」ということと、岡本太郎のいう「生命からあふれ出てくるような本然のよろこび」「瞬間瞬間の生きがい」といったものが、同じように見える。
読者は登場人物に自分を投影してはならない。それは岡本太郎のいう空虚だろう。
登場人物に触発されることで読者は瞬間瞬間の生きがいに目を向けるようになる……これが芸術としての理想形だろうか?
小説の持つ「人間への肯定」と読者をつなぐ架け橋として小説に人間が登場する、と書くと尤もらしく聞こえる。多くの人間は大なり小なり人間に興味があるのだから、小説のインターフェイスに人間を据えるのはいい手段だ。
人間の他に有用なインターフェイスがないから人間は小説に登場する……ずいぶんと消極的な解答だ。
実際、絵画や音楽には人間が登場しないものなどザラにある。ヒントはここにありそうだ。小説と、絵画・音楽を峻別するものはなんだ? 真っ先に浮かぶのは言葉だ。
小説は原則的に言葉しか使わない。絵画は原則的に言葉を使わない。
音楽は言葉を使ってもいいし使わなくてもいいが、しかし、言葉を使ったとしてもそれ以前に音という重要なファクタがある。
言葉と人間の関連を考えることが、小説に人間が登場する価値を考えることに繋がるのではないか?
前回までの流れで「社会」という小説の要素について考えようと思ったが、こちらは前田自身があまり興味を持っていないので、後回しにする。代わりに別の小説の要素、ありとあらゆる小説に含まれる要素である「人物」について考えを進めたい。
そもそもどうして小説には人物・人間が登場するのか? 人間がいなくても小説は成立するのではないか?
「書きあぐねている人のため小説入門/保坂和志」では「小説とは何か?」の問に対する答えのひとつとして、以下のように答えている。
----引用開始----
それは、小説とは、"個"が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。つまり、小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ。
----引用終了----
人間に対する肯定、ということならば、小説に人間が登場しても違和感はないし、むしろ積極的に登場させなければならないように聞こえる。
しかし、小説に登場する人間を肯定するということと、小説によって人間を肯定することはイコールではないだろう。しかも前田自身は小説に対して「人間に対する圧倒的な肯定」というイメージがないため、引用した文章が腑に落ちない。強いて反論する気持ちはないが、しかし簡単に受け入れることもできないという気分だ。
人間に対する圧倒的な肯定、個が立ち上がるということについては、岡本太郎が近いことを言っているようにみえた。「今日の芸術/岡本太郎」での一章「なぜ、芸術があるのか」では、人間の生きるよろこびについて、以下のように言及されている。
----引用開始----
すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない、そのよろこびが芸術であり、表現されたものが芸術作品なのです。
(中略)
現代人の生きがいのようになっている余暇の楽しみ、生活の趣味的な部分について考えてみましょう。
われわれの生活をふりかえってみても、遊ぶのには、まったく事欠きません。そして、ますますそういう手段、施設はふえるいっぽうです。だが、ふえればふえるほど、逆にますます遊ぶ人たちの気分は空しくなってくるという奇妙な事実があります。
(中略)
どんなに遊んでも、そのときは結構たのしんでいるようでも、なにか空虚なのです。自分の生命からあふれ出てくるような本然のよろこびがなければ、満足できない。自分では知らなくても、それは心の底で当然欲求されているし、もし、その手ごたえがつかめれば、健全な生活のたのしみが、自然にあふれでてくるはずです。
----引用終了----
前田には、保坂和志のいう「個が立ち上がる」「人間を肯定する」ということと、岡本太郎のいう「生命からあふれ出てくるような本然のよろこび」「瞬間瞬間の生きがい」といったものが、同じように見える。
読者は登場人物に自分を投影してはならない。それは岡本太郎のいう空虚だろう。
登場人物に触発されることで読者は瞬間瞬間の生きがいに目を向けるようになる……これが芸術としての理想形だろうか?
小説の持つ「人間への肯定」と読者をつなぐ架け橋として小説に人間が登場する、と書くと尤もらしく聞こえる。多くの人間は大なり小なり人間に興味があるのだから、小説のインターフェイスに人間を据えるのはいい手段だ。
人間の他に有用なインターフェイスがないから人間は小説に登場する……ずいぶんと消極的な解答だ。
実際、絵画や音楽には人間が登場しないものなどザラにある。ヒントはここにありそうだ。小説と、絵画・音楽を峻別するものはなんだ? 真っ先に浮かぶのは言葉だ。
小説は原則的に言葉しか使わない。絵画は原則的に言葉を使わない。
音楽は言葉を使ってもいいし使わなくてもいいが、しかし、言葉を使ったとしてもそれ以前に音という重要なファクタがある。
言葉と人間の関連を考えることが、小説に人間が登場する価値を考えることに繋がるのではないか?
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