・出版メモ
米澤穂信、新刊。
古野まほろ、新刊。
貴志祐介、硝子のハンマーが文庫落ち。
・筑波
二泊三日の実験施設見学ツアーであって、宿舎にはパソコンもなく、前田はノートPCを持っておらず、結果、執筆は行わず、読書して、レーザの勉強とプロットを少し進めようとしただけであった。
執筆の習慣が途切れたのはよろしくなかったと、今現在、思っている。
・読書(バレ含む)
「ナラタージュ/島本理生」読了。佐藤友哉の妻。初島本。正統な感じの恋愛物であった。
最も印象に残ったのは、会話中の仕草。マフラーをなおすという、それだけの文章。心理説明・描写ではなく、ただ自然な仕草を会話の間に挟むというのが、これほど面白く感じれるとは。
ストーリーは(恐らく)悲恋。前半は平和なのに、後半が悲しくなっている。この作品の悲しみに共通する要素を一言で表すなら「すれ違い」か?
前半の平和さも良いのだが、やはり面白くなるのが、後半に入ってから。ストーリーに於けるネガティブは、やはり面白くするために必要な要素なのか。恋愛物の場合は、特に。
しかし前田は、この物語にネガティブがあって欲しくなかった。勿論、あった方が面白いのは確かなのだが、個人的な好みとして、平和なままがよかったのだ。
このような嗜好、つまり「平和なままがいい」という好みは、ある領域の作品(といっても、前田は数知っているわけでもないのだが)に反映されていると思う。何かといえば「あずまんが大王/あずまきよひこ」「よつばと/あずまきよひこ」「スケッチブック/小箱とたん」といった作品群だ(あずまが多いのは前田の知識の問題である)。笑いはあるが、それはゲラゲラ笑うようなものではなく日常の微笑ましさであるような、そんな作品群である。このような作品群が受け入れられるならば、平和なままのナラタージュも受け入れられるのではないだろうか?
ところが、恋愛という要素を以って、上記の作品群とナラタージュは見事に分断されそうだ。
米澤穂信、新刊。
古野まほろ、新刊。
貴志祐介、硝子のハンマーが文庫落ち。
・筑波
二泊三日の実験施設見学ツアーであって、宿舎にはパソコンもなく、前田はノートPCを持っておらず、結果、執筆は行わず、読書して、レーザの勉強とプロットを少し進めようとしただけであった。
執筆の習慣が途切れたのはよろしくなかったと、今現在、思っている。
・読書(バレ含む)
「ナラタージュ/島本理生」読了。佐藤友哉の妻。初島本。正統な感じの恋愛物であった。
最も印象に残ったのは、会話中の仕草。マフラーをなおすという、それだけの文章。心理説明・描写ではなく、ただ自然な仕草を会話の間に挟むというのが、これほど面白く感じれるとは。
ストーリーは(恐らく)悲恋。前半は平和なのに、後半が悲しくなっている。この作品の悲しみに共通する要素を一言で表すなら「すれ違い」か?
前半の平和さも良いのだが、やはり面白くなるのが、後半に入ってから。ストーリーに於けるネガティブは、やはり面白くするために必要な要素なのか。恋愛物の場合は、特に。
しかし前田は、この物語にネガティブがあって欲しくなかった。勿論、あった方が面白いのは確かなのだが、個人的な好みとして、平和なままがよかったのだ。
このような嗜好、つまり「平和なままがいい」という好みは、ある領域の作品(といっても、前田は数知っているわけでもないのだが)に反映されていると思う。何かといえば「あずまんが大王/あずまきよひこ」「よつばと/あずまきよひこ」「スケッチブック/小箱とたん」といった作品群だ(あずまが多いのは前田の知識の問題である)。笑いはあるが、それはゲラゲラ笑うようなものではなく日常の微笑ましさであるような、そんな作品群である。このような作品群が受け入れられるならば、平和なままのナラタージュも受け入れられるのではないだろうか?
ところが、恋愛という要素を以って、上記の作品群とナラタージュは見事に分断されそうだ。
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