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・日記
 原子力発電所にて臨界事故が発生していたのを隠していたというニュースがあった。この事件に対する文句などは特にないが、気になったことが一つ。
 臨界事故の原因は、制御棒が下がってしまい反応量が大きくなってしまったため、らしい。どうして制御棒が下がると反応量が大きくなるような設計をしているのだろう? 安全を考えたら、下げたときに制御棒の効果を発揮するようにすればいいのに。そうしないと、何らかの外的要因で制御棒が落ちてしまったとき危険ではないか。

 一日を振り返って、特に何もしていないと感じるのは非常に気分が悪い。この感情を保存することができれば、この問題は解決するのだろう。
 感情の制御というのはなかなか難しい問題である。成長するに従って、大抵の人は感情を「抑える」ことは可能になると思う。多くの人と関わりを持つようになるからだ。日本は和の国なので、感情の抑制は周囲からも要求されることだろう。
 反対に、少なくとも前田は、感情を「昂らせる」ことができない。感情の「制御」というくらいだから、マイナス方向だけでなくプラス方向にも持っていけなければならないだろう(感情の振幅の問題である。ネガティブ、ポジティブの話ではない)。
 感情の制御について分類してみると、
1.ポジティブな感情を抑える
2.ネガティブな感情を抑える
3.ポジティブな感情を昂らせる
4.ネガティブな感情を昂らせる
 こんなところだろうか。前田は2しかできないと思う。社会に出れば、こういったことができるようになっていくのだろうか? controlable emotion?


・バドミントン
 集中の意味を知っている。
 ラケットを握り直すこともない。確かめるのは足にかかった体重くらいだ。左足に力が入っている。右に感じるのは、床との小さな接点。
 自由に自分を動かせることが解ればいい。
 息を吐く。
 シャトルを手から離す。
 意識して全身を動かすのはサーブのときだけだ。落ちるシャトルをラケットで振り抜き、上半身はそれだけ。コート中央に重心を持っていき、平等に体重を支えて、両足はそれだけ。
 シューズがコートを擦る音は聞こえている。体育館に反響した打球音も聞こえていた。ただ、聞こえただけだ。
 相手が振りかぶる。スローに見えることはありえない。
 ほんの一瞬先を予測する。千分の一秒か、万分の一秒か。
 右だ。
 瞬間の思考と両足の緊張。体を半身だけ捻り、ラケットを後ろに回している。
 右足が重くなる。左足が軽くなる。
 両足の錘は一瞬で逆転して、全身が風を感じ、腕を縦に振り抜いて、打球音が響く。
 集中すればするほど、感覚が狭まるなんてことはない。全部見えている。全部聞こえている。全部感じている。
 ただ、関係がないだけだ。シャトルを打つ音も、足がコートを叩く音も、クロス側のラインも、ポールの位置も、額を伝う汗も、呼吸する喉も。すべて、捨てられる情報。
 シャトルの軌道。相手のフォーム。両足の感覚。これだけが、全身を支配する。たったこれだけで、全身が動く。動いている。
 相手がシャトルに追いつく。打つ。
 軌道を予測し、回り込み、全身を捻り、打つ。
 すべての動きには、筋肉の緊張ばかりが残る。
 
 アクションシーンを書いたのは初めてな気がしないでもない。
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・日記
 確かに風呂のカバー(?)を閉じた裏側からの景色は、大人になってから見なくなったな。


・思考
 小説を書くのにも理論が存在する。起承転結がその最たる例であろう。小説の書き方本というのは、要は、理論の一つを学ぶための本だ。
 では、その理論を必ず学ばないとならないのか? 答えはノーであろう。まず、自分の楽しみのためだけに小説を書く場合は、人の目を気にする必要はないわけだし、理論は必要ない。
 では、人に読んでもらうために、より多くの読者に面白いと言ってもらうために書く場合、理論は必須なのだろうか。これも答えはノーになる。必ず、ではない。理論がなくても、主観ならば、面白い小説かどうかは解るからだ。面白いか否かで感性を働かせながら小説を考えれば、恐らく、理論がなくても自分にとって面白い小説はできあがるはずである。自分が書いたという贔屓目があるから、頭を冷やすという作業は必須だが。
 さて、このようにして小説を書くことができるならば、どうして理論が書き方本で示されているのか、つまり、何故小説家の卵は理論を必要とするのか? 答えは客観性ではなかろうか。
 自分の感性のみで「面白さ」を追求した場合、その面白さは作者一人にしか通用しない可能性がある。これでは「人に読んでもらう」という目的を達成することはできない。そこで理論という、先人たちの意見が導入される。理論というのはつまり、自分以外の人間の感性であり、批評眼であるといえるだろう。
 理論=他人の感性が成立するならば、理論に頼り切るなということも言える。頼り切る場合、革新には至らない。


・書店から出たところ
 自動ドアの開く音だけが聞こえると、屋外の空気がためらいがちに流れてきた。冷たいというほどではない。ただ、屋内よりも温度が低いと思っただけだ。もともと寒さには強い。
 三歩進めば背後にも冬の空気。呼吸をすると肺が洗われた気分になった。
 店に入ったときとはうって変わり、灰色ばかりが目につく。正面の駐車場のアスファルト。店の左を通る道路の色。空。音の少なさは同じくらいだった。
 どうして入り口は地面よりも少し高い位置にあるのだろうかと、今更ながら疑問に思った。地味な橙色の段差にして僅か二つ。この高さで、一体何が得られるのだろう。
 一歩だけで下に降り、停めてあった自転車のカゴに今買ったばかりの封筒と本を入れて、スタンドを上げてからサドルにまたがった。今は排気ガスの匂いさえない道路に沿って、家へと向かう。
 古い自転車だからか、単にタイヤの空気が抜けているだけか、こぎにくい。スポンジの上を走っているような気分になってくる。
 まあ、雪よりはマシか……。
 タイヤキを買おうかどうか迷うことさえなく、屋台の横を通り過ぎた。

 以上、薬丸岳みたいな文章練習。これからちょくちょくやっていきたいと思っている。


・出版
「化物語/西尾維新」の下巻がこの時期に出るとはどういうことだ? 西尾維新はそれほどまでに速筆なのか。或いは講談社が出し渋ったのか。
・日記
 今日も今日とて、図書館にて森博嗣作品(「すべてがFになる」と「今はもうない」と「君の夢 僕の思考」)をつまみ読みしつつ、小説をちまちまと。執筆速度が上がるわけでは全然ないが、こうやって森作品を読んだりしながら書く方が精神的に良い。モチベーションが下がらないと感じる。
 問題としては、現在書いている作品を「森のコピィだな」と言われてもしょうがないということ。意識しているのは間違いないし、そもそもトリックからしてそうだ。

 精神的苦痛が創作に対して良い影響を与えるかどうか。文豪と呼ばれた先人たちの多くが自殺という決断をしていることを考えると、一見して、そのくらいの苦痛を抱えていないと歴史的な作品を創ることはできない、と思わされてしまう。
 しかし自分は純文学を書こうとしているわけでも私小説を書こうとしているわけでもない。そもそも、苦痛を背負えば良い作品ができるというものでもない。
 結局落ち着くのは、苦痛を背負うのは深い思考の結果であって、それほどの思考がなければ苦痛は創作にとって無意味だという結論。

 集中力を鍛えるためにコイン立てでもしようか。硬貨全種類あったっけな?


・読書
 と、まあ、「すべてがFになる」と「今はもうない」と「君の夢 僕の思考」をほんの一部だけ読んだ(過去に全て完読している)。量としては「今はもうない」が最多。幕間のみを読了したので。
 昔の森作品は、校閲のためか、末尾の長音のルールが間違っていて変な気分である。
 森作品を読むと、どうも気分が詩的になる。別に詩を書こうという気分になるわけではない。身も蓋もない言い方をするならば、カッコつけた文章を考えたくなるわけである。今日は「やはり小説を書こうと自分を説得できるような作品を書きたい」とか考えた。
 前田だって、漫画を書いてみたいとか、演劇を創ってみたいとか、そんな気持ちだってあることにはあるのである。浮気性。
・思考
 微分方程式という発明は、一度に一カ所しか観察できないという人間の性質をよく表している。

 上のような文章を書けるのもblogならでは、ではないだろうか。非常に簡単な思いつき、文章にすれば一文で済んでしまうこと。前後の繋がりなど考えず、唐突に、放り込める。
 これが読者を意識した小説となると、そうはいかない。何らかの意図がなければやってはいけない。制限がかかる。
「自由」という言葉の論について常に出されることだが、制限というものは大切だ。全く自由きままな文章群を面白くするのは難しい。「何を書くか」という発想が最も重要になってくる。全く制限がないというなかから、面白い発想を出すのはなかなか難しいであろう。
 対して、小説は制限がある。この制限があるからこそ、発想すること自体は難しいが、面白い発想を生み易い。
 そもそも思考という行為は制限から生まれるものだ。何について考えるかを定めなければ思考することはできない。


・日記
 今の自分の作風が嫌になってきたせいか、不意に森作品か京極作品を読みたくなった。原点回帰である。
 そんなわけで「笑わない数学者/森 博嗣」と「虚空の逆マトリクス/森 博嗣」を図書館でつまみ読みした。少し鬱憤が晴れる。どうしてこんなに森作品は前田にあっているのだろう? お陰で自分の作品も少し進んだ。
「フィッシュストーリー/伊坂幸太郎」を少し読もうかと棚を見たら、伊坂作品が皆無だった。全部借りられているらしい。流石だ。


・読書
「ニューロマンサー/William Gibson」を読んでいる。訳は黒丸 尚。
 まだまだ序盤であるが、早くもピンチ。ストーリィについていけていない。訳文が苦手なせいか、初めて読むジャンルだからか……。最初から読み直そうか。
 しかし勉強という名目で小説を読むのが嫌になっている前田であった。
・日記
 映画「トム・ヤン・クン」を二日前に観た。「マッハ!!!!!!!」(感嘆符の数はテキトー)と同じ、トニー・ジャー主演。前田は「マッハ!!!!!!!」のアクションの方が好きであった。
 ストーリーは中盤から終盤にかけてよく解らなかった。アルコールのせいにしておく。

 3/10に書いた、文字と映像の違いについて。表現媒体の変換が困難なものほど、媒体の必然性が高く、良い作品になりえるのではないかと思った。そのように考えると、アクション映画というのは最高のジャンルの一つと考えられる。
 もちろんアクション映画の中にもつまらない作品はあるし、他のジャンルがつまらないというわけではない。


・出版
 どうやら「フリッカー式/佐藤友哉」が文庫化される模様。ようやく、である。これで新規読者を獲得できればいいのだが。


・読書
「アンノウン/古処誠二」読了。自衛隊という閉鎖・特殊環境でのミステリ。トリックにも当然のことながら、環境が反映されていた。
 何も「アンノウン」に限らないが、この手の「一般には知られていない環境」のミステリというのは「オーデュボンの祈り/伊坂幸太郎」などのファンタジィ世界を舞台にしたミステリと非常に似ていることに気づいた。どちらの作品群も、その世界でしか通用しない条件が加わる。両者の違いは、舞台のリアルさ(リアリティではない)のみではないのだろうか? そしてこの舞台の違いが、二つの作品群の評価を決定しているのだろう。とか思う。
 最近の江戸川乱歩賞は「特殊な職業の世界」というのを重視しているらしいが、ファンタジィ舞台のミステリがそのうち乱歩賞を取る気もする。それとも既にそういう作品が出ているのだろうか? 乱歩賞作品を読んだことがないので不明(候補作を二つほど読んだだけである)。読みたい作品はあるのだが。
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