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・日記
 確かに風呂のカバー(?)を閉じた裏側からの景色は、大人になってから見なくなったな。


・思考
 小説を書くのにも理論が存在する。起承転結がその最たる例であろう。小説の書き方本というのは、要は、理論の一つを学ぶための本だ。
 では、その理論を必ず学ばないとならないのか? 答えはノーであろう。まず、自分の楽しみのためだけに小説を書く場合は、人の目を気にする必要はないわけだし、理論は必要ない。
 では、人に読んでもらうために、より多くの読者に面白いと言ってもらうために書く場合、理論は必須なのだろうか。これも答えはノーになる。必ず、ではない。理論がなくても、主観ならば、面白い小説かどうかは解るからだ。面白いか否かで感性を働かせながら小説を考えれば、恐らく、理論がなくても自分にとって面白い小説はできあがるはずである。自分が書いたという贔屓目があるから、頭を冷やすという作業は必須だが。
 さて、このようにして小説を書くことができるならば、どうして理論が書き方本で示されているのか、つまり、何故小説家の卵は理論を必要とするのか? 答えは客観性ではなかろうか。
 自分の感性のみで「面白さ」を追求した場合、その面白さは作者一人にしか通用しない可能性がある。これでは「人に読んでもらう」という目的を達成することはできない。そこで理論という、先人たちの意見が導入される。理論というのはつまり、自分以外の人間の感性であり、批評眼であるといえるだろう。
 理論=他人の感性が成立するならば、理論に頼り切るなということも言える。頼り切る場合、革新には至らない。


・書店から出たところ
 自動ドアの開く音だけが聞こえると、屋外の空気がためらいがちに流れてきた。冷たいというほどではない。ただ、屋内よりも温度が低いと思っただけだ。もともと寒さには強い。
 三歩進めば背後にも冬の空気。呼吸をすると肺が洗われた気分になった。
 店に入ったときとはうって変わり、灰色ばかりが目につく。正面の駐車場のアスファルト。店の左を通る道路の色。空。音の少なさは同じくらいだった。
 どうして入り口は地面よりも少し高い位置にあるのだろうかと、今更ながら疑問に思った。地味な橙色の段差にして僅か二つ。この高さで、一体何が得られるのだろう。
 一歩だけで下に降り、停めてあった自転車のカゴに今買ったばかりの封筒と本を入れて、スタンドを上げてからサドルにまたがった。今は排気ガスの匂いさえない道路に沿って、家へと向かう。
 古い自転車だからか、単にタイヤの空気が抜けているだけか、こぎにくい。スポンジの上を走っているような気分になってくる。
 まあ、雪よりはマシか……。
 タイヤキを買おうかどうか迷うことさえなく、屋台の横を通り過ぎた。

 以上、薬丸岳みたいな文章練習。これからちょくちょくやっていきたいと思っている。


・出版
「化物語/西尾維新」の下巻がこの時期に出るとはどういうことだ? 西尾維新はそれほどまでに速筆なのか。或いは講談社が出し渋ったのか。
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