・コメント返信
>kisaさん
お勧め有難うございました。感想の述べ合い、楽しみにしております。
・思考
昨日書いた「観客というリアリティ」について。手記形式や日記形式もこれに近いということに気づいた。一人称のものも、遠くはないと思う。
作中人物が読者を意識しているかどうかを考えると、「観客というリアリティ」の高低は手記>日記>一人称の順になっている気もする。
二人称はどうなのだろう? あれは「読者を作中にいると錯覚させるリアリティ」を目指すもののように思える。それだけに、よほど巧くやらないと大失敗するのではないだろうか。自分の知る範囲では「疾走/重松 清」ぐらいしか該当作品がない。気になる。
・日記
本日よりwebサイトの更新再開。マンガ家、施川ユウキが神に思えてくる時期である。
ACIDMANのアルバム「green chord」を聴いた。一番気に入ったのはよりにもよって「toward」。十分を超える長い曲なので友人連中とカラオケに行くときには歌えない。それ以前に前田は音痴なので、この曲は難しい。「and world」といい「廻る、巡る、その核へ」といい、ACIDMANの長い曲は困る。
ACIDMANも、デビュー当時と今では相当変わったと言われるバンドの一つであろう。このことについては賛否両論あるだろうが、前田は今のACIDMANも好きである。
勿論、変わったと思う。では何が最も変わったと思うのかというと、歌詞だ(曲調は変わったというよりも、幅が広がったと形容したい。確かに「造花が笑う」や「シンプルストーリー」「FREAK OUT」のような曲は少なくなっていると思うが)。
昔の歌詞は、面白い文章がよく使われていた。良く言えば独特、悪く言えば意味不明である。サールナートなんて単語、大抵の人は知らないと思うし(広辞苑にも載ってなかった)、鉄の冷める音を聴いたことがある人はそうそういないだろう。昔の歌詞は抽象的なイメージしかできないものが多かった気がするのだ。
これが、歌の「what」の面白さである。歌詞=whatという捉え方。対して曲調や歌い方なんかがhow。前田は今のACIDMANのhowも好きだが、whatは昔の方が断然好きだ。
このwhatとhowであるが、何も歌だけに限らず、色んなものに適用できる概念だと前田は考えている。小説の文章ならば、描写の対象がwhatで、文体や形容詞がhowに当たるのではないだろうか。比喩はどうなのだろう……。前田はwhatに分類されると思う。
面白い描写、面白い文章を書くには、このwhatを追求する必要があるはずだ。故に、文章を書くためには観察眼が要求される。
・ピコーン!
舞城王太郎は関係がない。ただ閃きを表現したかっただけである。
日記と思考を分けなくてもいいんじゃないかと思い始めてきた。
・文章練習「坂道下り」
油が切れているのかタイヤの空気が抜けているのか分からないが、自転車のペダルが重いことは確かだった。サドルは硬い。心なしか車体も歪んでいる。乗り心地が悪い。
マイナスだらけだが、坂の下りだと帳消しになる。トンネルを抜けるまでの辛抱だ。
足に力を込めて、オレンジの光から出る。左折すれば、後はもう、落ちるように車輪が回ってくれた。
ペダルの上に立てば尻も平気だ。夜の寒さくらいは我慢しよう。時期は春と冬の境にある。耳たぶの冷たさも、厳しくはない。
道路の脇の木が視界の片隅で遠ざかる。並ぶ街頭の白が頭上を飛んでいく。
揺れるハンドルだけが道路の変化を教えてくれる。スピードの中では見えるはずのない、アスファルトの表面。
首の裏、撫でられるような感触。後ろ髪を梳くのは静止した風。動いているのは自分。
加速を続ける車輪に少しだけ摩擦をかけながら、道の先端へ急速に向かっていく。
何の匂いもしないのは、きっと、何も聞こえていないのと同じことだ。
・読書
「13階段/高野和明」を読み始める。まだ読み始めただけ。法律関係のことをガンガンやられるのでは?という危惧はある。法律は苦手。
あ!「ニューロマンサー/William Gibson」が途中だった!
>kisaさん
お勧め有難うございました。感想の述べ合い、楽しみにしております。
・思考
昨日書いた「観客というリアリティ」について。手記形式や日記形式もこれに近いということに気づいた。一人称のものも、遠くはないと思う。
作中人物が読者を意識しているかどうかを考えると、「観客というリアリティ」の高低は手記>日記>一人称の順になっている気もする。
二人称はどうなのだろう? あれは「読者を作中にいると錯覚させるリアリティ」を目指すもののように思える。それだけに、よほど巧くやらないと大失敗するのではないだろうか。自分の知る範囲では「疾走/重松 清」ぐらいしか該当作品がない。気になる。
・日記
本日よりwebサイトの更新再開。マンガ家、施川ユウキが神に思えてくる時期である。
ACIDMANのアルバム「green chord」を聴いた。一番気に入ったのはよりにもよって「toward」。十分を超える長い曲なので友人連中とカラオケに行くときには歌えない。それ以前に前田は音痴なので、この曲は難しい。「and world」といい「廻る、巡る、その核へ」といい、ACIDMANの長い曲は困る。
ACIDMANも、デビュー当時と今では相当変わったと言われるバンドの一つであろう。このことについては賛否両論あるだろうが、前田は今のACIDMANも好きである。
勿論、変わったと思う。では何が最も変わったと思うのかというと、歌詞だ(曲調は変わったというよりも、幅が広がったと形容したい。確かに「造花が笑う」や「シンプルストーリー」「FREAK OUT」のような曲は少なくなっていると思うが)。
昔の歌詞は、面白い文章がよく使われていた。良く言えば独特、悪く言えば意味不明である。サールナートなんて単語、大抵の人は知らないと思うし(広辞苑にも載ってなかった)、鉄の冷める音を聴いたことがある人はそうそういないだろう。昔の歌詞は抽象的なイメージしかできないものが多かった気がするのだ。
これが、歌の「what」の面白さである。歌詞=whatという捉え方。対して曲調や歌い方なんかがhow。前田は今のACIDMANのhowも好きだが、whatは昔の方が断然好きだ。
このwhatとhowであるが、何も歌だけに限らず、色んなものに適用できる概念だと前田は考えている。小説の文章ならば、描写の対象がwhatで、文体や形容詞がhowに当たるのではないだろうか。比喩はどうなのだろう……。前田はwhatに分類されると思う。
面白い描写、面白い文章を書くには、このwhatを追求する必要があるはずだ。故に、文章を書くためには観察眼が要求される。
・ピコーン!
舞城王太郎は関係がない。ただ閃きを表現したかっただけである。
日記と思考を分けなくてもいいんじゃないかと思い始めてきた。
・文章練習「坂道下り」
油が切れているのかタイヤの空気が抜けているのか分からないが、自転車のペダルが重いことは確かだった。サドルは硬い。心なしか車体も歪んでいる。乗り心地が悪い。
マイナスだらけだが、坂の下りだと帳消しになる。トンネルを抜けるまでの辛抱だ。
足に力を込めて、オレンジの光から出る。左折すれば、後はもう、落ちるように車輪が回ってくれた。
ペダルの上に立てば尻も平気だ。夜の寒さくらいは我慢しよう。時期は春と冬の境にある。耳たぶの冷たさも、厳しくはない。
道路の脇の木が視界の片隅で遠ざかる。並ぶ街頭の白が頭上を飛んでいく。
揺れるハンドルだけが道路の変化を教えてくれる。スピードの中では見えるはずのない、アスファルトの表面。
首の裏、撫でられるような感触。後ろ髪を梳くのは静止した風。動いているのは自分。
加速を続ける車輪に少しだけ摩擦をかけながら、道の先端へ急速に向かっていく。
何の匂いもしないのは、きっと、何も聞こえていないのと同じことだ。
・読書
「13階段/高野和明」を読み始める。まだ読み始めただけ。法律関係のことをガンガンやられるのでは?という危惧はある。法律は苦手。
あ!「ニューロマンサー/William Gibson」が途中だった!
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