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・日記
 隣の芝生は青いという言葉を真とする。人の能力は環境に左右されることを考えると、他人の能力や才能に羨望しない状況というのはありえないことになってしまう。
 ただし、羨望の対象は空間的ではなく、時間的な隔たりの上での他人でも良い。例えば、過去の自分などである。
 と、そんなことを思いつつ、今の前田なら、高校に演劇部があったとして、入部してみたいと思っている。


・言い訳
 少々、具体的には二日ほど、blogの更新をサボった。言い訳とも言えぬ言い訳としては、他のことをしていたからだ(これだけの文章に、言の字が三つも! しかも言い訳になっていない)。
 既に身に染み付いた習慣を一時的に中断した場合、中断した時間にも依るだろうが、再開は非常に楽である。機会が与えられれば、以前と同じように続行できる。一方、習慣付けようとしていたことを中断した場合、再開するのには多少の苦痛を伴い、簡単に以前と同じように続行することは難しい。
 これは、以前に書いた思考の高低に由来するのではないかと思う。つまり、習慣化されたことは低い位置にあり、習慣化されていないことは高い位置にある、ということ。後者を習慣化するための過程は、自発的ではない化学反応に似ているだろう。縦軸にポテンシャルをとったとき、真ん中が大きな山となる、あのグラフである。
 習慣化されていない状態では、中くらいの高さである。これを習慣化しようとして、日々実行するようになると、高い山を登ることとなる。そして山の頂点を越えると段々低くなり、最初の状態よりも低い位置までくると、習慣となる。
 習慣化しようと日々実行している状態=山を登ろうとする状態で休止すると、低い位置に落ちてしまう。落下による差分は、時間に比例し、これが大きいほど、中断前の状態に持っていくのが困難となる。
 自然科学ならば、差分だけのポテンシャルが顕在化するが、これは習慣化に使われることはない。別のことに使われてしまう。

 そんな訳で本日は、文章練習を省略し、現在執筆中の作品を書こうと思う。


・読書
「人間は考えるFになる/森 博嗣|土屋賢二」読了。
 書き下ろしで「消えたボールペンの謎/土屋賢二」と「そこに論点があるか、あるいは何もないか/森 博嗣」が収録されていた。
 後者のトリックが途中で分かったこともあってか、自分は「消えた~」の方が面白かった。語り口とでも言うのか、笑いの詰め込まれた文章が非常に面白かった。
 土屋賢二の笑いの特徴はどういうものだろうか。
「A→B→Cという論理の流れに対して、Aに関して無意味に考え(トートロジィを使用するのは一つの手段)、突然Cの結論を導く」
「相手の思考を自分の都合の良いように予想し、直後、当人に完璧に否定される」
 少なくとも、この二つがあるのではないかと思った。

 森博嗣が自身の小説の書き方を解説していたが、天才でもない限り、この方法を採用すべきではないと思った。凡人である前田としては、プロット構築の手法として採用するのが適当ではないかと感じる。
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