・ピンポイント文
最近、面白い文章とは何かを考えたりする。ここでいう文章というのは小説の中での文章のことだ。ただし、面白さの要素として文脈を考慮しないという制限をつけることにする。文脈もなしに面白い一文とは何か?
言い方を変えるならば、或る文章を書いたときにその文章で良いと思う基準には、文脈以外に何があるか? どうしてその文章で良いのか? ということだ。文章ひとつに捕らわれてしまうと小説を書き上げるのに凄まじい時間がかかることになるが、拘泥せざるを得ない。
例えばガルシア=マルケスの一文目はその一文だけで凄い。
「葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午」の一文目は凄いけど、その凄さはガルシア・マルケスとは全くの別物だろう。
格言というのも一文の面白さを持つと思う。
どれがベストだ、ということはないと思う。しかしストーリーを放棄した小説を書いている前田の考えたい、手に入れたいのはガルシア=マルケスの一文目だ。
・読書
「ノルウェイの森(下)/村上春樹」を読了。上巻の方に手をつけず、下巻だけの再読だった。村上春樹はノーベル賞を獲るや否や(今年はドイツの作家でしたね)。
読んでいるうちに疑問に思ったのが「この作品の読ませる力はストーリーにあるのか、それ以外のところにあるのか」ということだ。これがイマイチ判断できない。
前田の意識としては、主人公の語り口だけで読んでいけると思っている。だが、それは本当なのか? ストーリーが語り口に何ら影響を与えていないとは言い切れない気がしている。物語、人物、文章という三要素は小説の要素としてしばしば挙げられるが、「三」と区切るのは正解なのだろうか。物語と人物の不可分さというのがある。また、文体が人物を創るということを前田は体験したことがある。
小説が要素から構成されているものではないのならば、物語、人物、文章などと分けていく目的は、執筆や評論の上での便利のためでしかない可能性がある。小説を読むという行為にとってはむしろ邪魔になってしまうのではないか? そしてその読むという行為は執筆において非常に重要なことでもあるのだ。
一度この作品の内容を全て忘れた上で、もう一度下巻だけを読み直してみたい。
そういや身近で村上春樹が好きな人を知らない。嫌いだという人は知ってるんだが。
最近、面白い文章とは何かを考えたりする。ここでいう文章というのは小説の中での文章のことだ。ただし、面白さの要素として文脈を考慮しないという制限をつけることにする。文脈もなしに面白い一文とは何か?
言い方を変えるならば、或る文章を書いたときにその文章で良いと思う基準には、文脈以外に何があるか? どうしてその文章で良いのか? ということだ。文章ひとつに捕らわれてしまうと小説を書き上げるのに凄まじい時間がかかることになるが、拘泥せざるを得ない。
例えばガルシア=マルケスの一文目はその一文だけで凄い。
「葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午」の一文目は凄いけど、その凄さはガルシア・マルケスとは全くの別物だろう。
格言というのも一文の面白さを持つと思う。
どれがベストだ、ということはないと思う。しかしストーリーを放棄した小説を書いている前田の考えたい、手に入れたいのはガルシア=マルケスの一文目だ。
・読書
「ノルウェイの森(下)/村上春樹」を読了。上巻の方に手をつけず、下巻だけの再読だった。村上春樹はノーベル賞を獲るや否や(今年はドイツの作家でしたね)。
読んでいるうちに疑問に思ったのが「この作品の読ませる力はストーリーにあるのか、それ以外のところにあるのか」ということだ。これがイマイチ判断できない。
前田の意識としては、主人公の語り口だけで読んでいけると思っている。だが、それは本当なのか? ストーリーが語り口に何ら影響を与えていないとは言い切れない気がしている。物語、人物、文章という三要素は小説の要素としてしばしば挙げられるが、「三」と区切るのは正解なのだろうか。物語と人物の不可分さというのがある。また、文体が人物を創るということを前田は体験したことがある。
小説が要素から構成されているものではないのならば、物語、人物、文章などと分けていく目的は、執筆や評論の上での便利のためでしかない可能性がある。小説を読むという行為にとってはむしろ邪魔になってしまうのではないか? そしてその読むという行為は執筆において非常に重要なことでもあるのだ。
一度この作品の内容を全て忘れた上で、もう一度下巻だけを読み直してみたい。
そういや身近で村上春樹が好きな人を知らない。嫌いだという人は知ってるんだが。
PR
この記事にコメントする