・絵と文
凄く当たり前のことなのだけど、マンガで成される表現というのはやはりマンガでしかできない表現なのだ。小説で成される表現というのもやはり小説でしか成せない表現であって、だからマンガの表現を小説に持ち込む、小説の表現をマンガに持ち込むといったことは、試みるようなものではない。
マンガを何冊か読み直していたら、ふと、そういうことを強烈に感じたので、今更だが(印象という言葉で何度か記事を書いている気もする)、書いておく。
・読書
「ももんち/冬目景」読了。マンガ。冬目景は好きな作家なのだが、いつも連載を完結させずに別の連載を始めてしまい、連載ペースが落ちまくるんで困る。今作も「また新連載か!」と思って敬遠したのだが、一冊で完結していると情報をもらい、買った(奥付みたら、単行本の発売が09年5月。第一話の初出が06年、最終話の初出が09年だった。五話書くのに三年かかっている。恐ろしい……)。
面白いと思ったことがふたつ。
まず「第○話」の表現。「第一話、ジョニー現る!」みたいなやつの「第一話」の部分。今作では第一話なら「MOTIF:1」という具合になっている。前田はMOTIF・モチーフという言葉を「何かを表すために利用する何かとは別のもの」という意味で捉えていた。この捉え方は間違っているようだが、今はそんなことは問題ではない。重要なのはMOTIFと名づけることでMOTIFとして捉えられていなかったものがMOTIFとして捉えられてしまうという、名前の持つ力だ。これは言い換えれば言葉の持つ力でもある。
一方で、よく小説では「直接的な言葉を使わずに、その状態を表すべし」と言われる。「きれい」であることを表すならば「きれい」という言葉を使うなと、そういうことだ。こちらの用法と先のMOTIFの用法は別物なので、注意が必要である。
もうひとつが、ネガティブな気配がしない、という点。これは単にマンガという媒体だからなのか、この作品特有のものなのか、判断はできなかった。
あと、ももが八重樫さんより若くみえる(何故か八重樫さんにはさん付けしてしまう。千砂は千砂なのに)。
凄く当たり前のことなのだけど、マンガで成される表現というのはやはりマンガでしかできない表現なのだ。小説で成される表現というのもやはり小説でしか成せない表現であって、だからマンガの表現を小説に持ち込む、小説の表現をマンガに持ち込むといったことは、試みるようなものではない。
マンガを何冊か読み直していたら、ふと、そういうことを強烈に感じたので、今更だが(印象という言葉で何度か記事を書いている気もする)、書いておく。
・読書
「ももんち/冬目景」読了。マンガ。冬目景は好きな作家なのだが、いつも連載を完結させずに別の連載を始めてしまい、連載ペースが落ちまくるんで困る。今作も「また新連載か!」と思って敬遠したのだが、一冊で完結していると情報をもらい、買った(奥付みたら、単行本の発売が09年5月。第一話の初出が06年、最終話の初出が09年だった。五話書くのに三年かかっている。恐ろしい……)。
面白いと思ったことがふたつ。
まず「第○話」の表現。「第一話、ジョニー現る!」みたいなやつの「第一話」の部分。今作では第一話なら「MOTIF:1」という具合になっている。前田はMOTIF・モチーフという言葉を「何かを表すために利用する何かとは別のもの」という意味で捉えていた。この捉え方は間違っているようだが、今はそんなことは問題ではない。重要なのはMOTIFと名づけることでMOTIFとして捉えられていなかったものがMOTIFとして捉えられてしまうという、名前の持つ力だ。これは言い換えれば言葉の持つ力でもある。
一方で、よく小説では「直接的な言葉を使わずに、その状態を表すべし」と言われる。「きれい」であることを表すならば「きれい」という言葉を使うなと、そういうことだ。こちらの用法と先のMOTIFの用法は別物なので、注意が必要である。
もうひとつが、ネガティブな気配がしない、という点。これは単にマンガという媒体だからなのか、この作品特有のものなのか、判断はできなかった。
あと、ももが八重樫さんより若くみえる(何故か八重樫さんにはさん付けしてしまう。千砂は千砂なのに)。
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