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・コメント返信
 何なんだろうな。もっとも、どうやって危険度の算出をやってるかも分からないから、9%の意味も分からないんだよね。


・あ! こんなところに!
 山本周五郎賞が発表されていた。
リンク>第22回 山本周五郎賞受賞作品発表
 受賞者ではなく、候補者に目がいった。橋本紡がいる!


・素敵思考
 例えば小説に関して考えるとき、それが正しいかどうかで思考を評価するのではなく、素敵かどうかで評価した方が素敵だと、「君の夢 僕の思考/森 博嗣」を少々立ち読みして思った。
 ここでのタイトルはUnidentified Fantastic Thinkingとかにしようと思ったけど、Unidentifiedは不適当だった。かといって適切な単語を探すのはメンドイ。


・読書
「スモールプラネット/本城直季」を少し眺めた。写真集。kisaさんに感謝。
 俯瞰して見た町などの写真集。しかし単なる町ではなく、どれもがミニチュアのように見える。「何を撮るか」ではなく「どのように撮るか」の凄さ。
 特徴として、一枚の写真の中に複数のピントがある。これがミニチュアのように見せるための工夫なのかどうかは分からないが、ともかく、そういう特徴があった。そしてその複数のピントの存在が面白かった。普段の生活では見えない視点だからだ。
 もちろんわざとピントをずらして物を見ることは可能だが、ズレたピントの視界と合っているピントの視界は共存できない(少なくとも前田は共存させられない)。つまり前者と後者の視界は時間的にズレて存在するのだが、写真だと共存させることができる。時間が関係ないというか、時間の全体を撮っている、と言ってもいい。「全体」というのは恐らく「表現」ということを考えるとき重要なポイントになる概念で、その「全体」を写真上に表している。そこが面白かった。

 ところで、前田は数枚の写真を眺めた後、あとがきとか解説を探してしまった。言葉ではない写真という表現に対して、どうして言葉による解釈・解説を求めてしまったのか? 答えは安心したいから、だろう。感覚、感触、感情などの本来言葉で十全に説明できないものを言葉に定着させるということは、あやふやなものを確かなものにするということだ。曖昧を排除して人は安心を得ることができる。
 だが、表現者、創作者がそうやって安心してもいいのだろうか? 小説家だとしてもだ。
 分からない感覚を分からないというまま持っておく。或る観点においては重要なことだ。
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