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・コメント返信
>kisaさん
 映像化を想定して書く小説か。前田は一度書いたことあるが、表現の上の制限がつく、というくらいだったな。文章でしかできないことを盛り込むと、映像化したときにその面白さが消えてしまうし。その分、作品の魅力をストーリーに込めなければならないのだと思う。

>simo
 がっかり感? それは表紙絵がひどかったからなのか、また他の連載を始めやがって!と思ったからなのか。
 再開の期待よりも先に、アフタヌーン連載のACONYが完結することを祈るべきだな。


・詩人
 谷川俊太郎と覚和歌子の対談・朗読会に行ってきた。対談のテーマは言葉について。音としての言葉と活字としての言葉、といった話とか。
 詩も何編か朗読したのだけど、その中で「みみをすます/谷川俊太郎」がすごかった。以下、広義のネタバレ。
 この詩では遠い時間と遠い空間をこちら側(読者のいる時間・空間)に持ってくる、ということをしている。
 そもそもフィクションでは時代も場所も自由に書くことができる。「1898年ブラジルでのことである」と書いてしまえば、フィクションの中では1898年のブラジルなのだ。そうでなければ時代モノなんて成立しない。当たり前のことだ。フィクションでは時代も場所も自由に「作る=設定する」ことができる。
「みみをすます」で行っているのは、そういうことではない。1898年のブラジルを読者のいる時間・空間の上に作るのではなく(この場合、読者が向こうの時間へ行く、と表現するのが前田のイメージに合っている)、1898年のブラジルを読者のいる時間・空間に「持ってくる」。読者の時空が1898年ブラジルになるのではなく、読者の時空かつ1898年のブラジルになる。現在が過去と繋がるというダイナミズムが強烈だった。
 こういう、時間・空間を「持ってくる」というのは、言葉でしかできないんじゃないだろうか、という気になった。

 なお、「みみをすます」には1898年もブラジルも登場しない。
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