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・朗読
「朗読しながら小説を書くことにどんな意味があるのか?」みたいな話を何度かこのblogに書いた。んで、ふと「既存の小説を朗読するとどうなるのか?」と思ったので、試しに「ハル、ハル、ハル/古川日出男」を朗読してみた。
 ひとつ分かったことというか、もしかしたら、という疑惑を持ったことがひとつ。
「台詞を単調に朗読してしまう作品は、キャラが立っていないのではないか?」
「ハル、ハル、ハル」を読んだときは、声に抑揚がついたが、前田が自分で書くときは抑揚がつかない。特に台詞が。これはちゃんとキャラを書けていないからなのではないか、という疑惑である。
 そもそも前田はキャラ(=人物)を描くのが苦手である。
「演技の基礎のキソ/藤崎周平」という演劇の教本のようなものに「感情を声に出すのではなく、声を出すことで感情を作る」といったことが書かれていた。辛いときでも、顔で笑ってみれば、意外に気分も晴れる。そういう意味合いである。ならば、小説を書く際も外面=朗読の声を作ることで、書くものにも影響を与えられるのではないか?
 ひとつの方法論として試してみたい。


・音楽と小説
 バンド・凛として時雨は作曲しながらその曲をレコーディングすることがあるらしい。音楽の分野には即興というものもある。
 以前にも少し書いた「音楽と小説の関係」だが、上のことは考察を進める上でのキーワードになるのではないかと思った。


・読書
「後巷説百物語/京極夏彦」読了。
「巷説百物語」、「続巷説百物語」と続いてきていて、作中の時系列的には今作がシリーズの最後になる。前田は無印と続も読んだが、今作が最も面白かった。ただし人に勧めるとするならば、今作だけではなく、無印と続を読んでから読むことを勧めるだろうと思う。このシリーズは短編連作の体裁を取っているが、そのように「物語を積み重ねるということ」に大きな意味を感じたからだ。「百物語」というタイトルの意味もそこにあるのだろうと思う。
「言葉の意味を拡張すること」というのが小説の効果(というか、役割というか、力というか)のひとつであるが、今作はまさにそのような小説だった。この小説は「物語」という言葉を拡張しているような気がする。
 シリーズ通しての(前巷説百物語を除く)語り部は百介だと思うが、このシリーズはまさに百介の物語だった。百介の持つ物語、というべきか。
 ポイントは「時間」だと思う。小説を通して語られたことは百介の時間でもあるのだろう。シリーズを通して読み、今作も最初から読むことで、読者は百介の物語=百物語を語られる。そうされることで、読者は「物語」という言葉により大きな意味を感じるようになる。「今は昔」という決まり文句にこれほど感動した記憶は前田にはない。
 実に満足した読書だった。しかし欠点というか、気になったこともないわけではない。途中でダレてしまった部分があるのだ。途中で飽きかけてしまった。しっかりとストーリーの定型が決まっているため、なのかもしれない。
 読んでいるその文章で止めずに、次の文章を読ませるための力とは何なのか、前田はそれを考えなければならないだろう。あと、文章がページを跨がないようにするという工夫が京極作品には施されているが、今作ではそのための無意味な改行が多い気がした。予想だが「読者の読みやすさを配慮するために」文章がページを跨がないようにするという工夫は、少なくともアマチュアのうちはやるべきでないと思う。

 今作といい「聖家族/古川日出男」といい「ゴールデンスランバー/伊坂幸太郎」といい、最近、強烈に「時間」を感じられる作品によく出会うようになった気がする。聖家族とゴールデンスランバーは発行時期が近いが、今作はずれているので、何もブームという訳ではあるまい。前田がそこに注目するようなっただけかもしれない。前田は「時間」を描く作品を書きたがっている、とも解釈できるかもしれない……。
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