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・供養
 何かもうダメだと思ったので、自作のダメな感じの小説を上げることにする。小説の供養。どこかちゃんとした所に提出できないようにする、ということでもある。




 どうやら三日前から雨が降り続いているらしい。くぐもったような水の音が聞こえている。水の匂いもする。外に出るには傘が要ると思った。
「もうじきあの子が帰ってきますから、待っていてください」
 語尾が溶けて消えていくような、高い声が聞こえた。人が傍にいる気配もあった。自分以外の身体があるだけで、どうして気配などと曖昧なものを感じるのだろう。息遣いだろうか、伝播する体温だろうか。いずれも微かなものに変わりない。人一人分の空気がこちらに迫り出しているからかもしれない。
 顔を向けようとすると、首の皮の引っ張られる感触があった。頭蓋というのは思いの外重量のあるものである。同時に背筋の曲がっていたことに気づいた。筋肉が弛緩している。
 私にはあの子とは誰のことなのか、とんと分からなかった。疑問を口にすると舌の縁に唾が滲んだ。喉の中が震えたようだった。掠れるしか能のなさそうな、頼りない震えだった。大声を張ろうとすれば難儀するだろう。私は困惑した。
「あの子はあの子じゃないですか」
 また声が耳についた。先よりも低いようだった。言葉の違いではなく、心情に根差した違いだろう。当たり前の質問に対する呆れが混じっているのだろうか。
 しかし私も名前など要らない気がしてきた。私の困惑はいつの間にか消えていた。もうじき帰ってくるのだからそれで良い。
 私は煙草を吸いたくなり、袂を探った。指が軽いものに触れた。からからと鳴った。


    ※

 どうやら四日前から雨が降り続いているらしい。夜の川は黒く、どこからが水でどこからが岸なのかよく分からなかった。辺りも一層暗く、波紋も見えなかった。
 水際は冷える。傘をさしてはいるが、風邪をひくのは厭だったので帰ることにした。
「こちらです」
 女が私の手を取り、川沿いを足早に歩いていく。土の地面は少しばかり歩きにくいが、足を取られることもなかった。
 ふと対岸に赤い光の灯るのが見えた。雨のせいか、少しぼやけていた。私はその場所へ行かなければならないような気になった。
「向こうの岸へは行かないのか?」
「はい。橋は通り過ぎてしまいました。もう戻れません。早く家へ帰りましょう」
 帰るといっても、それが私の家なのか、女の家なのか、皆目見当がつかない。
 振り返ると確かに橋らしき景影が浮かんでいた。いつの間にかあの下を通っていたらしい。しかし傘に雨音が落ちなかった時間を思い出し、私は納得した。
「今から何処へ行くのだろう」
 女は返事をしなかった。俄かに恐ろしくなり、私は女の手を引くようにして足を止めた。女は不思議そうにこちらを振り向いたが、辺りの闇のせいで顔がよく見えなかった。私は女に傘を渡すと、落ち着くために煙草と燐寸を懐から取り出した。雨がぱたぱたと弾けているが、傘の上でのことか、川面でのことなのか、判然としなかった。
 燐寸を擦ると、ああ、これがさっきの赤い光なのか、と気づいた。

    ※

 どうやら五日前から雨が降り続いているらしい。川の増水で女の子がひとり流されてしまったと新聞が報じていた。外に面した窓が鳴っている。水の匂いが漂っているも、雨漏りはまだ見つかっていなかった。
 雨戸を閉め切ってしまえば暗くもなる。心なしか畳が湿っているように思えた。もちろん気のせいに違いなかった。
 妻が部屋に這入ってきたようだ。襖を開閉する音が聞こえた。私はただ前を向いたままだった。妻は私の傍に座ったらしい。衣と畳が擦れたようだった。
「雨ばかり降っていますね」
 今はまだ五月だった。私は去年のことを思い出した。一昨年のことも思い出した。しかしこれほど雨の続いたことはなかった。幾ら思い出しても同じことだった。
「食べるものも少なくなってきましたし……買い物に行ってきます」
「傘はあるかい?」
 この家にちゃんと傘が用意されているのかどうか、私には怪しく思われた。
「ええ。大丈夫です」
「確認しておこう」
 私は妻の背を追う様に玄関へ向かった。板張りの廊下は冷たかった。滑るような予感はどこにもなく、足の裏が吸い付くような感触があった。矢張り湿っているらしかった。
「それでは行ってきます」
 玄関の戸がかしゃりと閉まった。
 私は長らく外出していなかった。妻について行けばよかっただろうか。しかし外で煙草を喫えるかどうか分からない。水気で燐寸が点かないかもしれなかった。懐を探ると燐寸と煙草を置き忘れていたことに気づいた。

    ※

 どうやら六日前から雨が降り続いているらしい。窓のない書斎だが、雨音で外の様子が知れる。時折、木の騒々しく揺れる音と風の音が渦のように聞こえた。台風が来るのかもしれないが、ここで本を読んでいる限り関係のないことにも思えた。
 文机の上に本が三冊、積まれている。私は四冊目を読んでいた。
  あいうえお かきくけこ
 私は文字というものが次第に奇怪に思われてきた。どうしてこんな、ただの線に意味があるのか。どうして文字の集合を読んでいるだけで、知らぬ世界のことさえも分かるのか。
  It is well known that Maxwell's electrodynamics――as usually understood at present――when applied to moving bodies, leads to asymmetries that do not seem to be inherent in the phenomena.
 私は次第に薄気味が悪くなり、四冊目も文机の上に積んだ。外の風雨は収まる気色もなかった。書斎の四方を囲む棚は揺らぎもしない。隙間なく詰められた本のために、棚の奥には古い空気が残っているに違いなかった。
 次第に風が強くなっているようだった。途切れる間もないくらいの雨粒の撥ねる音が聞こえている。本棚は微動だにしていない。本の背表紙は測ったように揃っている。ここの主人は几帳面な性格らしい。
 私は何をすることもなく、しばらく文机に肘を突いていた。外出するにも傘の持ち合わせがない。家の人間に借りる手段もあるが、今は留守である。天候のためか、やがて水の匂いが鼻につき始めた。私は火の気が欲しいと思い、燐寸を擦り、煙草に火を付けた。本の位置を丁寧に測ったのは自分だったことに気づいた。

     ※

 どうやら七日前から雨が降り続いているらしい。昼間から町に陰が降りたようだった。それだけ灰色の雲が厚いのだ。夕暮れもなしに夜の訪れそうな気配である。
 濡れた道の両側に濡れた家家が並んでいる。水溜りでまばらな波紋が、浮いては消え、浮いては消えを繰り返していた。私が傍に立つと止んだ。傘を持っていてもズボンの裾が湿ってしまっていた。小さな傘だった。私は歩幅を縮めて、また歩き出した。
 駄菓子屋が店を開けていた。他に用件があった気もするが、少しくらいなら構うまい。そう思い傘を閉じた。
 左右に様様な菓子の箱が配されていて、大人には幅の狭い道ができていた。鮮やかな色のものが多かった。生憎、菓子の名前もよく分からない。籤もあった。棚の上には凧や独楽、着せ替え人形などが置かれていた。店番はいなかった。奥は畳になっており、その奥に板張りの廊下が見えた。
 私は適当な駄菓子と着せ替えの人形が欲しくなり、目ぼしいものを見繕った。飴玉、麩菓子、ガム。赤い服の人形。
 座敷の奥に声を張った。しかし人の気配はしなかった。ただ外の雨の落ちる音があるばかりだった。手を駄菓子と人形に塞がれて、私は煙草も喫えなかった。
 銭を勝手に置いていこうかとも考えたが、幾ら払えばいいのかが判らない。仕方なしに商品を元の場所に戻した。帰りにまた寄ればいい。私は軒先に出て燐寸を擦り、煙草に火を点けた。薄暗い雨の内に吐いた煙が溶けていった。
 傘を差し、私はまた雨の道を歩き始めた。しばらく湿った地面を叩く地面の足音があった。聞こえる間隔から思うに、小さな子どものものだった。それが気に係り後ろを振り向いたが、誰もいなかった。寂しい往来がずっと続いていた。自分の足音だったと気づいた。

     ※

 どうやら八日前から雨が降り続いているらしい。気温が下がっているのか、熱い茶が随分と腹に沁みた。
 妻は台所で昼食の片付けをしている。食器の音が時折聞こえていた。他は雨音だけだった。弱まっているのか、慣れただけなのか、以前よりは小さくなっているように思えた。
 玄関の方から男の声が聞こえた。私は妻に代わり、来客に立った。
「ああ、お久しぶりです。こう長雨だと参りますね」
 藁谷はそう言いながら傘立てに傘を入れた。
「久しぶりということもないだろう。一週間ほど前に会ったはずだ」
「そうでしたか? しかし一週間なら十分に久々でしょう。もう学生ではないんですし、毎日会う方が妙というものです。あと、何か拭く物貸してもらえますか? 足元が濡れてしまいました」
 視線を下げると確かにズボンの裾が濡れているようだった。しかし藁谷の傘は長く、外も強い雨というわけではなさそうだった。水溜りを踏んだか、それとも車に引っ掛けられたか。私は彼を待たせて奥へ戻った。拭き物の場所くらい、私にも分かる。
「雨が降ってばかりでは散歩もできませんからね。いや、雨の中の散歩というのも乙なものだとは思いますが、いかんせん濡れてしまう。こればかりはどうしようもない。もっと傘が大きければいいんでしょうか。ああ、奥さん、ありがとうございます」
 玄関で衣服を拭かせた後、客間に通すと藁谷は座りながら話を始めた。今は熱い茶を美味そうに飲んでいる。妻はまた台所へと戻っていった。気を遣っているのか、私の来客のとき、彼女は茶を運ぶだけである。
「君は散歩が趣味だったか?」
「いえ、全くそんなことはないです。ただ外を出歩くというのは良いものですよ。知らない土地ほどいい。新鮮ですからね。いつも同じような風景を観ていては飽きてしまいます」
 卓の上で私の湯呑から湯気が立っていた。妻が新しく淹れた茶だった。さっきまで飲んでいた茶はどうしたのだったか。捨ててしまったのだろうか。
「その点、日本は良いですね。四季がある。一年かけて景観が変わる。すぐに飽きたりはしないから、同じ場所にずっと住めるわけですね。埃及だとこうはいかない。年中暑くてはまいってしまう」
「君は埃及に住んだことがあるのか?」
「いえ、全く。想像で言ったまでです。あすこは、恐らく、年中暑いでしょう」
 藁谷は卓の端にあった灰皿を引き寄せると、煙草を咥えて燐寸を擦った。ぼう、と白いような赤いような火が点る。少しばかり黒い煙が立つ。藁谷は手を振って燐寸の火を消すと、灰皿に入れた。先が焦げていた。
「先輩も偶には旅行でもしてはどうですか? 四季はあっても毎日の変化は微微たるものです。先輩の感性ではずっと同じようなものでしょう」
 余計なお世話である。尤も私自身、己を愚鈍な性質だと感じているため、反論のしようもない。代わりに煙草を一本と燐寸を一本貰った。火を点けてしまえば、後には先の焦げた燐寸が残った。当たり前のことだ。
「日日の生活に飽きてしまうというのも嫌でしょう。愉しみというものは常に変化の中にありますからね。僕達の年齢になってしまえば、自分の中より外に変化を求めた方が易しいし、面白いというものです。どうです? 雨が止んだら山にでも登りましょうか?」
「生憎、私は登山の経験がないのだ」
「なに、僕だってそんなものありません」
 二人分の紫煙が部屋に漂う。それは白く染まっているとは言い難い稀薄さだ。時間も経たずに煙は消散する。そうして煙草は短くなっていく。湯呑の中の茶も同じだった。段段と温くなり、湯気も立たなくなる。
 外は今でも雨が降っている。雨戸を閉めているため、見えるわけではない。聞こえるだけだった。しかし雨雲のせいで日の光が少ないのだと思うと、客間の電灯が妙によそよそしく思われてきた。
「けれど経験なんぞなくたって良いでしょう。何も富士山に行こうというわけでもないんです。茶臼山でもいい。そういえばあそこには古墳がありましたね。ピラミッドのようなものだと考えれば、異国情緒があって面白い」
 日本の山で異国情緒も何もないだろう。適当なことを言う男である。藁谷がにやりと笑うのを見て、私は自分の頬も緩んでいることに気づいた。

     ※

 どうやらずっと前から雨が降り続いているらしい。雲の晴間も暫く見た記憶がない。夏の近さも感じられなかった。街全体に充満する水気が熱を吸っている。皮膚に触れる何もかもが鬱陶しい。
 夜は殊更酷い。寝付こうとしても布団が気に障り眠れない。布団を除ければ寝巻きが邪魔になる。脱いでしまっても床が背に貼り付く。
眠気に眼を閉じるも、不快な空気のために睡眠とは言い難い状態が続く。眼前が暗いのは眠りのためなのか、瞼の裏側があるだけなのか。凝乎としているも、身体を動かせないのか、動かすのが億劫なだけなのか、区別がない。
 只管に不快感が続き、不意に意識が明瞭とした。そうして、ようやく眠っていたことに気づいた。しかし夜は続いている。眼を閉じる前と同じ色の闇がある。どれほどの時間が経ったのかも分からない。私は曖昧な睡眠と鈍重な時間が厭になり、身体を起こした。
 喉が渇いていたから、台所に行き、麦茶を一杯注いだ。眼はとうに暗闇に慣れていたため、電気を点ける気にはならなかった。
 妻はきっと眠っている。
 光もなく、己以外の人もない。麦茶を飲み、コップを流しに置いてしまえば、自分の動作もなくなった。人の気配というものがなくなった。テーブルがあり食器棚があり流しがあり冷蔵庫があり天井にぶら下がった電球がある。それだけだった。残りは夜の空間と、雨音だけだった。廊下に出る戸は開けたままだった。そこより先は、ただ黒いばかりで何も見えなかった。
 もう一杯飲む気にもならず、眠れるとも思えず、私はその場にただ立っていた。己の呼吸も鼓動も聞いていなかった。意識しなければそんなもの聞こえはしない。生きている限りその音はあるのだ。常に耳を傾けるわけにはいかない。
 雨はずっと降り続けている。しかし私は雨音を聴き続けている。それは水の変形する音だ。何米もの遥か上空から落ち、地面に撥ねる。水溜りの表面だろうと川の水面だろうと、水滴は原型を失う。そうやって音が鳴る。もうずっと鳴り続けている。
 私の眼はこれ以上暗闇に慣れはしない。物は見えるが、立体としてではない。表面だけが薄ぼんやりとあるような、心許ない視界だ。しかし足は確りと床を踏んでいる。手の平で棚に触れれば硬さがある。つまり、私の手の届かないところに、匂いもなく音も発さない何かがいるとすれば、私には分からないのだ。
 そんなものが今、この場を去ってしまえば、私はその存在を知る機会を永久に失ってしまうのだろう。
 例えば、今、廊下へ続く戸は開いている。私の眼にとっては、ただ四角く黒いだけの、穴だ。
 手は届かない。音も匂いも、雨で埋められている。妻は眠っている。ここには来ない。
 私の頭は冴えている。眠れる気色もない。ここは夢ではない。
 私は二日前に買った駄菓子を思い出している。人形も買ったはずだ。何処に仕舞っただろうか。棚に眼を遣る。戸に硝子が嵌っている。指で押すだけで簡単に割れてしまいそうな気がした。今が夜だからそう感じるに違いない。表面しかない硝子など脆くて当然だ。
 棚に近づいて、触れる。勿論、何の温みもない。指先の温度を奪われているだけだ。ざらつきもしないが、滑りもしない。
 指先の肉が凹む。
 僅かで良い。体重が爪先に掛かるだけで、硝子に力が加わる。歪む。
 そうすればこの夜初めての、雨でない音が響くと、そう、思ったのだ。
 しかしそんな音は聞こえなかった。
 散らばる破片もなく、鋭角になった硝子に傷付く指もなく、私は硝子の前に立っているだけだった。
 光など此処にはないはずである。にも関わらず、硝子は私の顔と、私の背後を映す鏡になっていた。私は硝子を隔てた棚の中の菓子と、硝子に反射した背後の空間を同時に見た。
 例えば其処にあの子がいるとしよう。その時私はどうするだろう。我が子が帰ってきたと、喜び、抱きしめるのか。我が子は帰って気はしないと、幻覚だと、視界に入らぬ振りをするのだろうか。
 駄菓子を遣るのかもしれない。赤い人形を渡すのかもしれない。
 ただ厭になって、眼を瞑るのかもしれない。
 背後にあるのは闇である。
 時間が経てば太陽が昇る。雨雲と雖も、朝の陽光を全て塞ぐことなどできはしない。此処にも光が滲む。或いは晴天かもしれぬ。
 だが此処にあるのは未だ闇である。
 雨はずっと降り続けている。街が溺れているように、水の匂いが立ち込めている。
 煙草が欲しいと思った。もう何時間も喫っていない。燐寸を擦れば、視界も明るくなるだろう。燐寸が必要だ。しかし私の手の届く場所にはない。傍にあるのは硝子の鏡だけだ。
 私は厭になり、瞼を閉じた。元元暗かったものが、何も見えなくなった。瞼の裏に何かの陰があるだけだ。
 耳は雨の音しか拾わない。皮膚は湿った空気にしか触れない。鼻腔は水の匂いしか感じない。いつの間にか、口の中が渇いている。
 私は硝子もまた液体だということを思い出した。
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