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・コメント返信
>kisaさん
 ミステリ好きにとっては、やっぱりそっちの方だよな。

>無為さん
 グイン・サーガは確か完結してなかったと思う。あと何巻かは出せるだけの原稿溜まってそうだけど(栗本薫はかなり速筆だったはず)、完結まではいってないんじゃないかな。ファンにとっては残念な話だけど……。


・読書
「夏への扉/R.A.Heinlein」読了。
「孤高の人 6/坂本眞一」読了。
 今回、批判的な感想を書く。比喩について。「夏への扉」は冒頭の3ページについて思いっきりネタバレするので注意。「孤高の人」についても、単行本5巻と6巻の描写についてネタバレします。

 夏への扉、というのは作中で二種類出てくる。ひとつが猫のピートの探す扉。もうひとつが主人公デイヴィスの探す扉である。この二つの扉の最大の違いは、比喩されているかどうか。
 前者は比喩のない「夏への扉」である。作中で明文化されている通り、猫のピートは本当に「夏に繋がっている扉」を探している。今が冬でも、そこを開ければ夏に出ることができるという、そのままの意味だ。
 対して、主人公の探す「夏への扉」とは、本当に夏に繋がっている扉ではない。物語上で主人公が求めているものの比喩だ。
 前田は今作の冒頭を読んだとき「これは名作だなぁ」と感じたのだが、その理由は「比喩ではない夏への扉」にある。逆に、「比喩としての夏への扉」には面白味を感じなかった。正直に言えば、つまらないと思った。
 比喩でないということの面白さと、比喩であるということのつまらなさ。この違いは何なのか?
 ここで「孤高の人」の描写を持ってくることにしよう。
 5巻に、主人公の森文太郎がひとりで山の尾根を歩いているシーンがある。ここで、文太郎の「山が好きだ」「山を歩くのは気持ちが良い」といった心情表現として「白馬に乗って夜空を駆ける」という表現が成される。だが、前田はこの表現を「つまらない」と感じた。
 次に6巻。文太郎が山の夜明けを見るシーン。ここでは夜明けの美しさの表現として、オーケストラの演奏が同時に書かれている。この表現に対してやはり前田は「つまらない」と感じた。
 ふたつの表現の共通点は何かいえば、比喩である。白馬もオーケストラも、山を比喩するものとして書かれている。この比喩のために、山の素晴らしさが矮小化されてしまっている。「山にしかない魅力」が相当に除去されてしまっているということ。山を歩いて「白馬に乗って夜空を駆ける」ような気持ちになり、それが楽しい/気持ちいいというのなら、最初から白馬に乗ればいいし(まあ、夜空を駆けることはできないが……)、山の夜明けを見てオーケストラを聴いている心地になるのが良いというなら、山に登らずオーケストラを聴けばいいのだ。
 山の素晴らしさを比喩で表現されても、尾根を歩く→乗馬、夜明け→オーケストラといった「イメージの置き換え」が生じるだけで、山そのものが伝わらない。比喩の功罪といっていいのではないだろうか。喩えることで「分かりやすい別のもの」として伝えることができる一方で、そのものを伝えることはできていない。比喩によって、山に「乗馬」「オーケストラ」といったイメージを付加させていると同時に、「山それ自体」のイメージが除去されてしまっている。そのために山に対するイメージが膨らまず、矮小化されることになってしまう。
 以上のような「比喩による矮小化」に類することが「夏への扉」でも起こっているのではないか?
つまり、物語を通して表現された主人公の求めるものが単なる「夏への扉」という言葉に矮小化されてしまっているから、「主人公の探す夏への扉」がつまらなく思えてしまうのではないか?
 以上が「比喩であるということのつまらなさ」なら、「比喩でないことの面白さ」は何か? 単純に「矮小化」の逆、いうなれば「イメージの拡大」か?
異化が「イメージの拡大」の一種ならば、なるほど、当てはまりそうである。

 と、まあ、批判的に書いたが、以上のことが「夏への扉」の面白さにどれほど影響するかといえば、殆ど影響しないだろう。ポイントは別のところにある。
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