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・感想を言うだけ
 最近「9mm Parabellum Bullet」を聴き始めた。「凛として時雨」みたいに強烈な声をしている、というわけでは全然ないのだけど、何だか気に入った。曲とか演奏面が良かったのだろうか。
 ライブ映像を見ているとメンバが実に楽しんでいるように見えて、こちらも楽しくなってくる。


・読書だが新書
「フォト・ジャーナリストの眼/長倉洋海」を読んだ。著者はフォト・ジャーナリストで、内紛の起きている国に行って人々の写真を撮っているようだ。
 以前にも「マクロとミクロ」云々の話をこのblogに書いたが、この手の本を読んでもやはり同様のことを思ったりもする。全体を見たときと、個人個人を見た場合とは、やはり違うのだ。
 中東の紛争の問題は複雑だとよく言われるようだが、本書を読んで思ったのは、対立の原因は複雑だが先ず行うべき対処はシンプルなはずだ、ということ。問題なのは、弱い人たちが虐げられていることだけだと思うのだ。格差社会も凄まじい。
 ノンフィクションというジャンルの凄さというのはまさに「現実に起きていることを提示する」ということで、フィクションではこれを真似できないような気がする。


・読書
「さようなら、ギャングたち/高橋源一郎」読了。またもや高橋源一郎。
「ジョン・レノン対火星人」の元になった小説が「こんなの長編小説じゃない」という評価を受けて、今作で高橋源一郎は群像新人賞を取った。ということらしいが、パッと読んだ限り、今作の方が長編小説に見えない。詩と言われた方がとっつきやすいくらいだった。
 毎度のことながら訳が分からない!というのではなく、今回は少し思うところがあった。高橋源一郎を読むときの混乱の元は、前田の場合、何かの暗喩としか思えない登場人物(?)にある。例えば今作なら「名前」が出てきたりする。登場人物には名前があるということじゃなくて「名前」が登場するのである。
 そんな登場人物(?)を比喩と捉えずに読んでいくと、小説全体は何を表していることになるのか? 今まで高橋源一郎の小説はその点が難しかったが、今作はひとつの回答を見つけた気がする。
 つまり、この小説は「小説を書いていく過程」そのものなのではないか? 小説を書いている作者の状態を追ったものなのではないか?
 もしそうだとすれば、今作の内容をトレースしていくようにして小説を書けるはずである。ということで、いずれ試してみたいと思った。
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