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・日記
 就活兼春休みにより帰省。


・読書
「永久帰還装置/神林長平」を読んでいる。途中だが「現実」云々という題材を扱っていて、なかなか興味深い。

 非常に当たり前のことなんだが、フィクションというのは嘘である。マンガだろうが演劇だろうが小説だろうが(基本的に)嘘だ。
 さて、その嘘の中で嘘をつくこともできる。作中作というやつだ。一昔前に流行った感のある仮想現実も、嘘の一種だろう。
 問題にしたいのは「虚構」についてである。虚構があれば対義語として「現実」も出てくる。現実であるということ、虚構であるということ。これを虚構であるフィクション内に登場させることの意味は何なのか?
「永久帰還装置」だと、前田の場合は、現実云々の題材が扱われることで、メタな視点に立たされた。「この物語の中で、前田が読んでいるこの小説が取り扱われているんじゃないか?」と思った、ということである。
 このように、メタな視点に立つということ。読者の小説に対する扱いが変わるということ。これは、以前に前田がこのblogで述べた「リアリティ」の問題に直結する(というか、同じである)。
 相変わらず前田は「リアリティの開発」が文学の目指す道だと考えているので(というか、前田がそういう文学を書きたいと思っているだけだが)、メタな視点に立たせるという「現実」は考察の対象として興味深い。
「虚構」「嘘」「作中作」も同様だ。これらは仕掛けや設定として簡単に扱うこともできるが、それ以上に重要な意味があるのではないかと思うわけである。

 もうひとつ、「永久帰還装置」の感想だが、「キャラ萌え」というのは言い換えれば「感情萌え」なのか、と思った。キャラというと直感的によく分からないが、感情というと直感的に分かる気がする。少なくとも前田にとっては。

 あと一般に「マンガとか小説にはリアリティが必要だ」ということが言われていると思うが(このリアリティというのは、上で前田の言っている「リアリティ」とは違う)、本当に必要なのはリアリティ=現実味ではなくて、説得力なんじゃないだろうか。リアリティも説得力も同じ意味だって言われたら「そうなんですか」と言うしかないけど。
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無題
君が神林長平読むとは珍しい。
そしてリアリティの話は何を今更と。
ケータイ小説だって読者層が「リアル」だと思い込んでいさえすれば商売として成り立つわけで。
empty 2009/02/25(Wed)23:55:08 編集
無題
>「この物語の中で、前田が読んでいるこの小説が取り扱われているんじゃないか?」
というだけであれば、それこそエンデの『はてしない物語』が、比較的子供向けながら丁寧にやってる。俺が読んだ岩波の単行本の場合、作中に出てくる『はてしない物語』の冊子の描写そのままの装丁で、印刷のインクの色も本文通りに作られている。
Rufu 2009/02/26(Thu)13:16:12 編集
追記
箱入りのハードカバーの方だ。知らないうちにソフトカバー版なんて出てるでやんの。

虚構性について。厳密には作中作という形ではないんで話がずれるかもしれないのだが、『箱男』をダシに。
 一人称にしろ三人称にしろ、作者は「フィクションである」という以外の点では読者に対して嘘をついてはいけない、と考えられる。叙述トリックなどを用いて誤魔化すのはいいが、嘘をつくと物語が成り立たないからだ。
 『箱男』は、最近気がついたんだが、「書かれたものを読む『読み手』」を視点人物として持っているように見える。この場合、「読み手」が何を行い、考えたか、と言うことに関しては嘘をつくことができない。そのため、「読み手」が真偽を判断しなかったらその通りに書ける(書かざるをえない)。このとき、「読み手」に読まれるテクストは、小説内部にありながら、作者が「フィクションである故の真実性」を保証する必要がないテクストになる。例えば「読み手」が読み違えたかもしれないが、一人称であれば作者はその読み違いを指摘することができないまま、読み違えられたものを書く必要がある。
 なんだか長くなって論旨がこんがらがりつつあるのでこの辺りで。前田の思考の一助になればいいが。
Rufu 2009/02/26(Thu)13:38:26 編集
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