・マイブーム
windowsのサービスを切りまくったり、余計なエフェクトや表示を切りまくったりするのがマイブームになっている。少しでも軽くするのだ。
現在、デスクトップにあるのはマイコンピュータとごみ箱のみ。壁紙は使いません。
・音楽的な意味で文学
唐突だが、平野啓一郎、または町田康、或いは大槻ケンヂを目指すことにして、音楽を始めました。
・文学的な意味で音楽
身体性、ということについて考えたい。スポーツと、楽器の演奏と、小説の執筆について(保坂和志は文学のポイントとして「身体性」という言葉を使っている)。
人間は生きている限り身体を使うものだが、身体を使った結果という情報は、その身体の動きや感触を通してどれくらい脳にフィードバックされるものなのか? このフィードバック具合というか、結果と身体の感触の関係というか、その手のものはスポーツと楽器の演奏と小説の執筆で、結構違っているような気がする。
まずスポーツ。これは……よく分からない。
次に楽器の演奏。しかし前田は楽器の演奏についてサッパリなので、かなり想像。
曲目を演奏する際には、まず楽譜(というよりは、理想とする音)があって、それに向かって演奏することになる。自分の指なり口なり足なり腕なりを使って、音を出す。身体の動きから直に音が出て、その音が理想の音と比べられる。どうやって比べるか? 出た音を耳で聞いて、頭の中にある理想と比べる。
流れとしては「身体の動き→結果(音)の発生→身体を使った結果の取得→理想との比較」という具合か。身体と行為がかなり密接に関わりあっている。
最後に小説の執筆。身体の動きを使って直に文字を書くことができる。この部分は楽器と同じように思う(音が文字かというだけの違い)。しかし小説の場合は「頭の中に浮かんだ文字を自由に書き出せる」という点で音と異なっている。楽器を演奏する場合には、頭の中にある理想の音を常に出せるとは限らない。演奏の技術とはつまり、理想の音を出す技術なのではなかろうか。小説の場合、文字を書くことは技術ではない。
じゃあ、小説の執筆における理想というのは何のことなのか。文字や文章そのものに理想はなく、文章から受ける印象について理想がある。だから、身体を使って出力された文章そのものは、頭の中にある理想と「そのまま」比較することができない。書かれた文章を読んで、そこから印象を得て、その印象が理想的かどうかを判断することになる。流れでいえば「身体の動き→結果(文章)の発生→身体を使った結果の取得(文章を読む)→脳で結果を解釈する→理想との比較」となる。身体と行為は、楽器の演奏に比べ、密接でない。
この、演奏と執筆における「身体と行為の密接さ」の差。ここに保坂和志の言う「身体性」の意味がないだろうか。
ちょっと楽器の演奏のことに戻ろう。ジャズのモード奏法について。
モード奏法というのは、前田はよく分かっていないのだが、要はアドリブのみ、というような演奏らしい。保坂和志は「文学はモード奏法であるべきだ」ということをよく言っている。で、モード奏法での「身体と行為の流れ」を考えてみる。こうはならないだろうか?(前田はモード奏法をやったことないので完全に想像である)
「身体の動き→結果(音)の発生→身体を使った結果の取得→今までの演奏の流れの把握、解釈→理想との比較→次の身体の動き」
楽器の演奏であるが、解釈の部分がある分、小説の執筆に近くなっている。理想というのも音ではなく、演奏全体の印象のことだ。
「小説の執筆」と「楽器の演奏」の中間にあるような「モード奏法」。ここに文学のヒントがあるのだろうか?
windowsのサービスを切りまくったり、余計なエフェクトや表示を切りまくったりするのがマイブームになっている。少しでも軽くするのだ。
現在、デスクトップにあるのはマイコンピュータとごみ箱のみ。壁紙は使いません。
・音楽的な意味で文学
唐突だが、平野啓一郎、または町田康、或いは大槻ケンヂを目指すことにして、音楽を始めました。
・文学的な意味で音楽
身体性、ということについて考えたい。スポーツと、楽器の演奏と、小説の執筆について(保坂和志は文学のポイントとして「身体性」という言葉を使っている)。
人間は生きている限り身体を使うものだが、身体を使った結果という情報は、その身体の動きや感触を通してどれくらい脳にフィードバックされるものなのか? このフィードバック具合というか、結果と身体の感触の関係というか、その手のものはスポーツと楽器の演奏と小説の執筆で、結構違っているような気がする。
まずスポーツ。これは……よく分からない。
次に楽器の演奏。しかし前田は楽器の演奏についてサッパリなので、かなり想像。
曲目を演奏する際には、まず楽譜(というよりは、理想とする音)があって、それに向かって演奏することになる。自分の指なり口なり足なり腕なりを使って、音を出す。身体の動きから直に音が出て、その音が理想の音と比べられる。どうやって比べるか? 出た音を耳で聞いて、頭の中にある理想と比べる。
流れとしては「身体の動き→結果(音)の発生→身体を使った結果の取得→理想との比較」という具合か。身体と行為がかなり密接に関わりあっている。
最後に小説の執筆。身体の動きを使って直に文字を書くことができる。この部分は楽器と同じように思う(音が文字かというだけの違い)。しかし小説の場合は「頭の中に浮かんだ文字を自由に書き出せる」という点で音と異なっている。楽器を演奏する場合には、頭の中にある理想の音を常に出せるとは限らない。演奏の技術とはつまり、理想の音を出す技術なのではなかろうか。小説の場合、文字を書くことは技術ではない。
じゃあ、小説の執筆における理想というのは何のことなのか。文字や文章そのものに理想はなく、文章から受ける印象について理想がある。だから、身体を使って出力された文章そのものは、頭の中にある理想と「そのまま」比較することができない。書かれた文章を読んで、そこから印象を得て、その印象が理想的かどうかを判断することになる。流れでいえば「身体の動き→結果(文章)の発生→身体を使った結果の取得(文章を読む)→脳で結果を解釈する→理想との比較」となる。身体と行為は、楽器の演奏に比べ、密接でない。
この、演奏と執筆における「身体と行為の密接さ」の差。ここに保坂和志の言う「身体性」の意味がないだろうか。
ちょっと楽器の演奏のことに戻ろう。ジャズのモード奏法について。
モード奏法というのは、前田はよく分かっていないのだが、要はアドリブのみ、というような演奏らしい。保坂和志は「文学はモード奏法であるべきだ」ということをよく言っている。で、モード奏法での「身体と行為の流れ」を考えてみる。こうはならないだろうか?(前田はモード奏法をやったことないので完全に想像である)
「身体の動き→結果(音)の発生→身体を使った結果の取得→今までの演奏の流れの把握、解釈→理想との比較→次の身体の動き」
楽器の演奏であるが、解釈の部分がある分、小説の執筆に近くなっている。理想というのも音ではなく、演奏全体の印象のことだ。
「小説の執筆」と「楽器の演奏」の中間にあるような「モード奏法」。ここに文学のヒントがあるのだろうか?
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