・日記
帰省完了。青春18切符につき八千円と安い旅であったが、八時間ほど消費した。time is moneyの解りやすい例であろう。
電車内では、本を読むことと睡眠以外、していない。
実家にて「鉄道員/浅田次郎」と「ライン/村上 龍」を発見。いつの間にか親が買っていたらしい。読むチャンスができたので、読もうと思う。
現在、実家のPCが壊れている。修復予定は皆無。従って「解の無い方程式」の更新はしばらく停滞する予定である。
・読書
車中にて「人工憑霊蠱猫01 蠱猫/化野 燐」と「夏と花火と私の死体/乙一」と「夏のあらし/小林 尽」を読了。
「人工憑霊蠱猫」
どうやら続きを買えということらしい。そのような終わり方であった。しかし、あまり買う気は起きない。残念。全く面白くないわけではないが、俺は好みに合わなそう、ということ。
俺としては二章開始からその途中までが最も面白かった。理由は恐らく、舞台が大学の研究室だからだ。非常に自分と近い。俺の持論として「読者が登場人物であると錯覚できるほど、小説は面白くなる」というものがある。従って、登場人物と境遇が近いほど、小説は面白くなると考えられる。これが「読者層をしぼる・狙う」という言葉の意味ではなかろうか。
また、一章と同様、二章においても敵は明白であった。日常パートで嫌な性格と評される人物が該当している。このような「パターン」が同じだというのは先を読まれてしまう可能性が高いが、敵に関しては(意外な敵でない限り)、先を読まれてもいいのではないか? 嫌な性格のやつが敵というのも、勧善懲悪に近く、エンタテイメントとして俺は好みである。こちらが嫌な思いをせずにすむからだ。
「夏と花火と私の死体」
驚異の十六才、乙一のデビュー作。氏の登場からもう十年以上か。発表当時、週刊少年ジャンプで広告を見た記憶がある。それからずっと気になっていた(読むのを忘れていたともいう)。
やはりどうしても目がいってしまうのが、視点保持者である。小説の書き方本で確実に触れられることとして「視点保持者は一人にしぼれ」というものがある。これにはちゃんと理由があって(上記の俺の持論も含むだろうが)、視点があちこち移動すると読みにくくなるからだ(少なくとも俺はそう思っている)。例えば「六番目の小夜子/恩田 陸」では視点の移り変わりが激しく、読みにくかった(作品自体は面白かった)。
本作は視点の移り変わりが激しい(=神の視点)くせに、読みにくさは回避されている。理由はやはり「わたし」という殺された女の子が語る故であろう。誰の心の中でも覗くことができる「わたし」がいるのである。これが基軸となるため、視点がふらふらしているように見えず、従って、読みやすい。
このように色んな視点を持つことによるメリットもきちんと存在しているようだ。自分が思ったのは「サスペンスの効果を出す」ということ。迫る側と迫られる側の両方を書くことで、迫られる緊迫感が増加していると思う。
画期的な小説というのは、ルールを鮮やかに破ってこそ生まれる。やはりそう思う。難しいことだ。
同時収録作品は「優子」。乙一はよくこの手のミステリを扱っていると思う。読者に思わせない、というのは最大のミスリードではなかろうか。
最後の一文がとても良かった。理由は俺の中で明白になっている。問題なし。多分。
「夏のあらし」
「School Rumble」の小林 尽が書いているということで、駅内のキオスクで購入した。漫画の分析は難しい。
またもや俺の持論であるが「人物の書き分けを髪型だけじゃなく、目や口、鼻といったパーツできっちり行う漫画家は信頼できる」。小林 尽はこのあたりをきっちりやっているように思えるので、好きな漫画家である。School Rumbleでの漫画精神論・抽象論も納得できたし、画風もシーンに合わせて変えてくる。
帰省完了。青春18切符につき八千円と安い旅であったが、八時間ほど消費した。time is moneyの解りやすい例であろう。
電車内では、本を読むことと睡眠以外、していない。
実家にて「鉄道員/浅田次郎」と「ライン/村上 龍」を発見。いつの間にか親が買っていたらしい。読むチャンスができたので、読もうと思う。
現在、実家のPCが壊れている。修復予定は皆無。従って「解の無い方程式」の更新はしばらく停滞する予定である。
・読書
車中にて「人工憑霊蠱猫01 蠱猫/化野 燐」と「夏と花火と私の死体/乙一」と「夏のあらし/小林 尽」を読了。
「人工憑霊蠱猫」
どうやら続きを買えということらしい。そのような終わり方であった。しかし、あまり買う気は起きない。残念。全く面白くないわけではないが、俺は好みに合わなそう、ということ。
俺としては二章開始からその途中までが最も面白かった。理由は恐らく、舞台が大学の研究室だからだ。非常に自分と近い。俺の持論として「読者が登場人物であると錯覚できるほど、小説は面白くなる」というものがある。従って、登場人物と境遇が近いほど、小説は面白くなると考えられる。これが「読者層をしぼる・狙う」という言葉の意味ではなかろうか。
また、一章と同様、二章においても敵は明白であった。日常パートで嫌な性格と評される人物が該当している。このような「パターン」が同じだというのは先を読まれてしまう可能性が高いが、敵に関しては(意外な敵でない限り)、先を読まれてもいいのではないか? 嫌な性格のやつが敵というのも、勧善懲悪に近く、エンタテイメントとして俺は好みである。こちらが嫌な思いをせずにすむからだ。
「夏と花火と私の死体」
驚異の十六才、乙一のデビュー作。氏の登場からもう十年以上か。発表当時、週刊少年ジャンプで広告を見た記憶がある。それからずっと気になっていた(読むのを忘れていたともいう)。
やはりどうしても目がいってしまうのが、視点保持者である。小説の書き方本で確実に触れられることとして「視点保持者は一人にしぼれ」というものがある。これにはちゃんと理由があって(上記の俺の持論も含むだろうが)、視点があちこち移動すると読みにくくなるからだ(少なくとも俺はそう思っている)。例えば「六番目の小夜子/恩田 陸」では視点の移り変わりが激しく、読みにくかった(作品自体は面白かった)。
本作は視点の移り変わりが激しい(=神の視点)くせに、読みにくさは回避されている。理由はやはり「わたし」という殺された女の子が語る故であろう。誰の心の中でも覗くことができる「わたし」がいるのである。これが基軸となるため、視点がふらふらしているように見えず、従って、読みやすい。
このように色んな視点を持つことによるメリットもきちんと存在しているようだ。自分が思ったのは「サスペンスの効果を出す」ということ。迫る側と迫られる側の両方を書くことで、迫られる緊迫感が増加していると思う。
画期的な小説というのは、ルールを鮮やかに破ってこそ生まれる。やはりそう思う。難しいことだ。
同時収録作品は「優子」。乙一はよくこの手のミステリを扱っていると思う。読者に思わせない、というのは最大のミスリードではなかろうか。
最後の一文がとても良かった。理由は俺の中で明白になっている。問題なし。多分。
「夏のあらし」
「School Rumble」の小林 尽が書いているということで、駅内のキオスクで購入した。漫画の分析は難しい。
またもや俺の持論であるが「人物の書き分けを髪型だけじゃなく、目や口、鼻といったパーツできっちり行う漫画家は信頼できる」。小林 尽はこのあたりをきっちりやっているように思えるので、好きな漫画家である。School Rumbleでの漫画精神論・抽象論も納得できたし、画風もシーンに合わせて変えてくる。
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