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・ユリイカ
 6月号。特集はマンガ批評の新展開。
 福満しげゆきの漫画についての記事をちびっとだけ立ち読み。こんな感じの言葉があった。
「非モテのルサンチマンは、たとえ彼女ができたり結婚したりしても消えたりはせず、いつまでも残る」
 作家というのも、そういうものなんだろうか。作家志望者が作家になったとしても、やはり「作家になりたい」という時代のコンプレックスみたいなものは消えない。そんな気がした。
 けど、作家になって満足したら続かんよね。当たり前か。作家になってもコンプレックスが消えないというのは、作家であるための必要条件、みたいな。


・文芸についての思いつき
 文章を「上手い」「下手」というパラメータで判断するのは一般的だと思う。けど、上手い文章って、作家志望者にとっての武器にはならないんじゃないかと思い始めた。
 ここでいう上手い文章とは「読み易い」「正確に伝わる」という意味。この意味で使うなら、上手い文章なんて書けて当たり前なわけで、作家志望者は、例えば新人賞に応募する人間は全員文章が上手いと思うべきじゃなかろうか。つまり、文章が上手いということは長所でも才能でもない。
 じゃあ、武器になる文章って何だろうか。形容詞化して言うと、強い文章って何だろうか?
 他の作家とは違う、異質な文章はきっと強いだろう。
 で、違うって、どこがどう違うの? 違うって何さ?


・文学研究
「白痴/坂口安吾」で「白痴の女は、実は白痴ではない」という考えを発表した人がいた。こういう考えが、前田は好きである。


・読書
「ロスト・ストーリー/伊藤たかみ」読了。以前、自分の記事でも紹介した「登場人物が個人的な理由でいなくなってしまった」という小説はこれのことだった。視点保持者の感情を書くのに文章を多く使っていて、好みが分かれそうな気がする。
 伊藤たかみのインタビュー記事を読んだことがあるためか、本作の背景はすぐに解釈できた(正解かどうかは不明である)。登場人物たちがたびたび口にする「物語」とは「小説」のこと、「誰か(伊藤たかみとか)が書く、または書くはずだった小説」のことで、本作はそれら小説の隙間にあるものだ、ということ。だから本作の作成過程として「プロットを幾つか書く重要な人物の部分を空白にする→そのうち一つのプロットを選ぶ→空白になった登場人物を入れて書く」というものが思い浮かんだ。
 しかし、どうにも「抽象的だな」という感想しか持てなかった。上記の自分の解釈を登場人物が述べるわけではないので、登場人物同士の物語についての会話が良く理解できないのである。
 あと、現実感という意味合いでのリアリティが、あんまりなかった気がする。文章は細かいし、描写などから「小説の中の世界」が良く想像できたけれど(この観点でのリアリティはあると思う)、登場人物たちの語る「物語=小説」に現実感がなかった。「ここにも小説があり、そして小説はここだけじゃない!」という感じがしないというか。あくまで「人物」が話すからだろうか? しかし小説云々にリアリティを感じないということは、「物語=小説」という前田の解釈がそもそも間違っている可能性が大きい。

 自分としては「八月の路上に捨てる」の方が面白かったです。
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