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・読書
「七瀬ふたたび/筒井康隆」読了。三部作の中の二作目。一作目の「家族八景」の存在は知っていたが、三部作だとは知らなかった。しかし解説を読む限り、今作から相当ぶっとんでいる気がしてならない。
 古い作品(三十年くらい前か)だからか、それとも筒井康隆だからなのか、文章が随分味気なく思えた(時をかける少女を読んだときも似たような印象を受けた気がする)。文章だけみれば、決して面白い作品とは思えない。
 しかし面白い。ラストとか結構感動した。文章は味気ないのに。こういうのはやはりストーリーの力だよなぁとか思う。当たり前のことだけど、文章力にある感動をストーリーで生み出すことはできないし、ストーリーで生まれる感動を文章力だけで出そうとしても無理なのだ。
 かつて「木曜の怪談」でドラマ化されていたのを思い出して買ったのだけど、組織の描写はドラマの方が怖かった気がする。


 もういっちょ「十角館の殺人/綾辻行人」読了。新本格の記念碑的作品? 館モノを読んだのは初めてかも? 読んだことがあるかどうか、ちょっと記憶にない(周囲の人間は誤解しているかもしれないが、前田は本格ミステリオタではない)。
 作品内容云々よりも、館モノ本格ミステリに於ける文学性について考えたくなった。そのミステリ作品固有の文学ではなくて、館モノ本格ミステリというジャンル自体にある文学性。
 よく言われていることだけど、館モノには(現実に則しているかどうかという意味での)リアリティがない。最大の魅力といわれる「謎とその論理的な解明」についても、それだけを書くならば小説でなくたっていい。極論すれば物語でなくてもいいのだ(もちろん、謎を深めるという効果は薄れてしまうが、謎と解明という点では変化がないだろう)。「最高の理系ミステリとは物理の問題だ」と発言した人物がいたが、それはある意味で正しいはずだと前田は思う。
 と、本格ミステリを否定するような言葉を並べたが、現実に本格ミステリというジャンルは存在し、そして多量のファンを獲得している。
 ミステリファンはまさか「謎と論理だけあったら他はべつにいらないよ。オマケみたいなもんだよ」とは言うまい。本格ミステリとは「読者対作者の論理ゲーム」だけで成立するものではないのだ。
 では本格ミステリとは一体なんなのだろうか?
「孤立した館という、確実に犯人が絞り込まれるような状況で」「犯人が誰かということだけを隠蔽するように人をあからさまに殺し」「犯人は必ず内部の人間で」「犯人でない人間は自分の身を護る手段を取らない」ような非現実性を持ちながら、それでいて「小説として書かれるような物語」という現実性を求められる本格ミステリとは、一体、なんなのだろうか? 非現実性と現実性を自覚的に両方とも楽しむ本格ミステリファンとは何ものなのだろうか?
 この問の解に文学らしさが潜んでいるような気がする。
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無題
>前田は本格ミステリオタではない

 誤解してました。

 私は、本格ミステリィは、限定的状況・条件のなかでどのようにブレイクスルーするかを味わうものだと思っている。要するに、どれだけ「綺麗な落とし所」を見つけられるか。だから、そこには、非現実性と現実性が同居するのはやむを得ないよね。
物理の法則(力学とか)だってある意味そうなんじゃないかな?

 だから。
 何者なのか、と問われれば、
「困難な状況を突破したときの快感を味わいたい者」というのが私なりの答えかな。
kisa 2008/06/07(Sat)17:16:48 編集
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